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全国盆踊り

盆踊り用語辞典



あ行

伊勢踊り(いせおどり)

近世初頭に流行した「掛け踊り」の一種。伊勢音頭とは異なる点に注意。
中世末以来の伊勢信仰の隆盛にともない、近世初期に伊勢から踊り始められ、全国へ踊り継がれた。

伊勢音頭(いせおんど)

伊勢地方に唄われる音頭類の総称。伊勢踊りとは異なる。

盆踊りとの関係で注目されるのは、近世中期以降に伊勢音頭をベースとする音頭が全国に広く流行し、盆踊り歌に採り入れられたことである。

もともと伊勢遷宮(伊勢神宮の定期的工事)の際の木遣り歌の中で「松前音頭」「松阪音頭」などの流行歌が生まれた。これが伊勢参りの参拝者や芸人の手で全国に広まり、祝い唄などのほか、盆踊りの「手踊り唄」に採り入れられている。
また伊勢参りの客で賑わった「古市」「河崎」などの歓楽街の座敷では、遊女たちに音頭にのせて盛んに踊らせて人気を博し、音頭だけでなく踊りの普及にも一役買った。こうして伊勢音頭は有名な郡上踊りの「川崎音頭」ほか、各地の盆踊りに普及していった。

「ヤートコセ ヨイヤナ」の囃子詞が、伊勢音頭の特徴である。
また踊りでは扇を用いて踊る踊りや、輪踊りでなく隊形で踊るなどの形態をとることがある。

一向衆(いっこうしゅう)

中世の日本を席巻した民間念仏信仰集団。盆踊り初期の重要な芸能伝播者と考えられる。
@一向宗は念仏信仰宗教者の集まりである。
「一向」は「ひたすら」とも読み、「ひたすら阿弥陀仏の救済を信じる」という意味。このため法然親鸞以来のいわゆる鎌倉仏教の「専修念仏」(念仏以外の信仰を排する信仰)の一派と考えられがちである。しかし、実態は密教・修験道との交流があって山伏なども含まれ、また祈祷や呪術など民間信仰の「雑修・雑行」を業とする人々もおり、けっして「専修」ではなかった。中世一般民衆は、「専修念仏」の宗教思想よりも、念仏や念仏僧のもつ「呪術力」(死霊鎮送など)を求めていた。

A一遍と同時代の鎌倉時代末期、一向上人といわれた 一向俊聖(1239-1283)による踊り念仏の信仰集団が形成された。しかしこれは歴史上の「一向宗」とは別である。歴史上の一向宗は、この一派のほか本願寺、時衆などの他の念仏教団とも同一視されるような広がりを持ち、いわば中世の民間念仏信仰集団のベースを形成するような位置にある。

B中世末期の「本願寺」と「一向宗」はこれまで同一視されることが多かったが、近年の研究によると両者はイコールではない。これは本願寺の蓮如は、教団構成員が「一向宗」を名乗ることを禁じていることからも明らか。しかしこうした本願寺指導層の思惑とは別に、実態として「一向宗」の人々は本願寺教団のベースに深く交わっていたと考えられている。

盆踊りとの関係で注目されるのは、この一向宗の中に、山伏や遍歴の芸能者など、念仏芸能の伝搬者が多数含まれており、彼らが全国への盆踊りの普及に大きな役割を果たしたと考えられる点である。

一向宗の実態を直接示す資料は少なく、さらなる実態究明が待たれる。

エイサー

ヤマトの「盆踊り」に該当する沖縄の盆芸能。

近世初頭、「ニンブチャー」などと呼ばれるヤマトの遍歴念仏信仰者によって沖縄に伝えられた念仏踊りが、沖縄風に発展したもの。「ヤイサー」「イェンサー」「七月舞(しちぐちもーい)」などという地域もある。現在も沖縄の盆は旧暦で行われており、エイサーも旧暦で行われる。

戦前は集落ごとに盆の先祖供養の芸能として行われ、家々や信仰拠点を巡って踊る「道ジュネー」が行われていた。唄は念仏唄がベースであったが、毛遊び(もーあしび)歌を採り入れて楽しく多彩な曲が増えた。「チョンダラー」などとよばれる道化役が登場することも、ヤマトの盆踊りと共通している。
「エイサー、エイサー、ヒヤルガエイサー、スリサーサー」という囃子詞に特徴があり、エイサーの名称の起源とされる。

戦後復興の中で、エイサーは人々の心のよりどころとなり、大きな飛躍を遂げた。太鼓踊りを中心にあざやかなパフォーマンスを加え、ポップスを採り入れるなど現代的な魅力を加えたエイサーは、「エイサーコンクール」や「エイサーまつり」を通じて沖縄を代表する芸能に成長した。しかし、多くの集落ではこれと並行して昔ながらの伝統エイサーもひろく行われている。

近年はヤマトでも若者を中心に人気が高い。沖縄人会などをベースにエイサーグループが結成されており、その数は100近くといわれる(03/09/01朝日新聞夕刊)、都会でのパフォーマンスも盛んである。

踊り「躍り・跳り・をどり」(おどり)

「舞い」と「踊り」の区別は、日本の民間舞踊芸術の基本的な区別。

@運動としては、「舞い」は平面旋回運動であり、「踊り」は上下運動・跳躍運動を基本とする。「舞い」は手、「踊り」は足の動きを重視する。

A「舞い」は個人の芸能。神懸かりの巫女が舞うといった姿が原型にある。一方「踊り」は集団の芸能であり、多数の参加者が同じ芸態を揃えて踊るものであるという点が違う。

B踊りは、その激しい上下運動(「だだ」とよばれる)で悪霊をはらったり、未成仏霊の鎮魂
を行うといった呪術性を持つ。

Cこのような「踊り」が芸能として独立・成熟するのは中世後期。
当時の風流踊りの中で「薩摩踊り」などの名称が現れるが、これは「踊り」が独立の芸能として認識され始めたことを示し、こうした芸能の流行・伝搬といった現象も見られるようになる。江戸時代には、踊りは民謡とともに全国を移動し、各地の盆踊りに取り入れられて定着していった。

踊り念仏(おどりねんぶつ)

学術用語としては、「踊り念仏」と「念仏踊り」は区別される。

@「踊り念仏」は踊り手自身が鉦を叩き、和讃や歌を歌う芸能。一方「念仏踊り」は、踊り手と歌い手が分かれたもの。
A「踊り念仏」は念仏、つまり信仰的側面が基本となるもの。一方「念仏踊り」は踊り、すなわち芸能・娯楽的側面を中心とするものという区別もある。一般に時期が下るほど芸能・娯楽的側面が強くなると考えられる。

◆歴史上の「踊り念仏」には、以下のようなものがある。
 空也の踊り念仏
 融通念仏の踊り念仏
 一向の踊り念仏
 一遍の踊り念仏
 時衆踊り念仏

◆また、現在「踊り念仏」という名称の芸能が全国に残っている。
 代表的なものは
 仏向寺
 跡部の踊り念仏
 藤沢遊行寺の踊り念仏

踊り櫓(おどりやぐら)

盆踊りの輪の中心、または近くに立てられる非常設の櫓。「踊り屋形」「音頭台」とよぶ地域もある。

現代の盆踊りでは踊り櫓はつきものだが、盆踊りへの導入の歴史は比較的新しい。
踊り櫓のない時代は、音頭取りは輪の中心や外に立ったり、または臼の上などに立って唄うことが多かった。音頭取りと踊り手が完全に分離し、囃子方として太鼓・三味線などの楽器が導入された後、踊り櫓が登場する。
芸態としても、移動型の門付けをする盆踊りが衰退し、広場などに集まって踊るようになると、踊り子が増大し、遠方まで音頭や囃子を伝達する必要から、踊り櫓が発達することになる。

多くの場合、音頭取りや囃子方を二階部分に載せるが、数名の踊り子も乗って踊ることもある。

音頭(おんど)



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掛け踊り 懸け踊り (かけおどり)


@村や町などの共同体間で踊りを掛け合う、あるいは踊りを送り継いでいく芸能形式。踊り芸能の古い形態であり、また基本的形式の一つ。「神送り」「移動」という要素と深く関係する。

代表的なのは中世に流行した風流踊り。厄神を踊りによって囃したて、村境から送り出す。次の村もこれを受けて村中を踊り廻り、また次の村へと踊り継いだ。
踊り継がれた最後は海などに流してしまうこともあるが、掛けられた踊りに返し踊りが掛けられることも多かった。戦国時代の京都での公家・武家の盆踊りでも返し踊りが掛けられ、また江戸時代初期に流行した小町踊りでも、掛けられた踊りは返さなければ縁起が悪いものとされた。
伊勢踊りも、掛け踊りの要素をもつ。

A踊り歌の形式からみた踊りの名称。
古い盆踊りでは、男女間や音頭と踊り子の間で歌文句の掛け合いで進行する形式があり、このような踊りも@と別の意味で掛け踊りと呼ぶことがある。
男女間の掛け合いを残す代表例に奄美大島の八月踊りがある。また音頭と踊り子の掛け合いは長野県新野盆踊りなどいくつかの土地で見ることができる。

門付け(かどつけ)

集落の家々を訪れて芸能等を行うこと。
一般には、祝言人(ほかいびと)や万歳(まんざい)などの漂泊の芸能者が、門の前で家を誉めるめでたい文句を唱え、芸を披露し、金銭や米などの報酬を受ける芸能を指す。

しかし、村人の子どもや青年が、村内の家々を歴訪し、祝い事を述べて回るタイプの民俗芸能も多く見られる。盆踊りにおいても、古いタイプの盆踊りや、近世に流行した娘達の小町踊にこの形式がみられる。沖縄のエイサーでは、「道ジュネー」といわれる。

門付けは、共同体内の有力者の家や檀那寺などを回ることが多いが、すべての家を回る、新精霊の出た家だけを回る、新築の家をまわる、共同体内の信仰拠点をまわるなど、様々な巡回方式が組み合わされ、また時代・地域によって変遷が見られる。


被り物・冠物(かぶりもの)

笠や頭巾、帽子などの頭にかぶるものの総称。
被り物は、防寒・防暑などの機能とは別に、宗教的・儀礼的な意味を強く持っていた。現代は改まった場面で脱帽するが、昔の日本では逆に着帽した。

盆踊りと「被り物」は密接な関係にある。
たとえばもっとも単純な被り物として「てぬぐい」がある。これは単に盆踊りの風物詩というだけでなく、本来は「顔を隠す」ためのもの。誰が踊っているのかわからなくすることで、「盆に迎えた霊とともに踊っている」という意味を表現していると考えられている。

よりはっきりした形態では「覆面」がある。
頭からすっぽりと覆面を被って踊るもので、有名なものでは秋田県西馬音内盆踊りの黒い頭巾「彦三頭巾」、島根県津和野踊りの白い頭巾などがある。竹富島のアンガマも本質的には盆踊りと考えられるが、顔半分を覆面し、サングラスをかけるなどの独特の扮装をしている。

より風流化したものとしては「笠」がある。
おわら風の盆では、深くしなった美しい「鳥追い笠」を被って顔を隠す。花笠音頭の笠のように、笠の上に花などをつける場合もある。この場合の花は、装飾以外に盆の霊の「依り代」としての意味をもつと考えられる。

神送り(かみおくり)

日本古来の「まつり」の儀礼の一部。
神や精霊を@迎えAもてなしB送り出す、というのが日本の「まつり」のもっとも根本的な形式である。「神送り」はその最後の段階にあたり、特に丁重に行われることが多い。

盆踊りの最後に、迎えた精霊を送り出す行事を残すところがあるが、これは「神送り」の一種である。長野県阿南町新野の新野盆踊りの「踊り神送り」の行事は、その代表例。

側踊り(がわおどり)

風流踊りの芸態の構成要素。

風流踊りでは、輪踊りの中心を「中踊り」と呼ぶのに対し、外側を取り巻く輪踊りを「側踊り」と呼ぶ。中踊りには、風流の「造り物」や「風流傘」などが位置し、これを取り巻いて踊るという芸態が見られた。

江戸時代以降、側踊りが中踊りと分離し、盆踊りの輪踊りに独立するケースが多かったと考えられる。現在中踊りと側踊りの両方を残す芸能はきわめて少ない。

口説き(くどき)

小歌(小唄)と並ぶ、盆踊り歌の代表的なジャンル。
原型はすでに中世の「平曲」にあるとされ、近世の謡曲・浄瑠璃で大きく発展し、盆踊りにも取り入れられた。

盆踊りでは、音頭取りが短い節にのせて、7・5ないし7・7の単純な形式を繰り返して、長い物語を歌っていく。踊り子は文句の合間に簡単な囃子詞を返すことが多い。えんえんと歌いつづけることができるため、夜を徹して踊る盆踊りの際に重宝した。

歌詞の内容はいわゆる長編叙事詩で、「鈴木主水口説き」「那須与一口説き」などが全国的にポピュラー。その物語の多くは、江戸時代の流行芸能である浄瑠璃から移植されたものである。

口説きは、小唄より遅れて江戸時代に入ってから発達したものと考えられる。特に江戸後期の江州音頭の登場とともに登場した「口説き祭文」が有名で、現在の河内音頭の源流となった。
地域的分布は西日本を中心とし、郡上踊りなど中部地方あたりでも見られる。栃木県の八木節、東京の佃島盆踊りなども口説き形式であるが、源流は関西由来のものと考えられる。

供養踊り(くようおどり)

盆踊りの別称として「供養踊り」という地方がある。
精霊を供養し慰めるという盆踊りの宗教的側面を強調したもの。「供養踊りなので、よその人でも踊ってくれれば精霊が喜ぶ」などといわれる(和歌山県本宮町)。


下駄(げた)

下駄は、盆踊りに一般的に見られる履き物である。
「浴衣と似合う」という服飾上の理由だけでなく、盆踊りと下駄の結びつきにはいくつかの理由が考えられる。

@音をたてる楽器としての「下駄」の側面がある。
下駄の音は、踊りの拍子を整えることができ、手拍子と同じような機能をもつ。同時に、日本の祭りでは「音」を立てることが重要な意味をもっており、そうした儀礼的な側面も考えられよう。音の演出効果もある。岐阜県の郡上踊りでは、夜の街に響く下駄の音が重要な演出的効果をになっている。

A下駄の聖性、宗教性の側面もある。
秋田裕毅「下駄」(法政大学出版会)は、下駄は「聖なる履き物」とし、悪霊除けと考えられる焼き印が刻印された下駄が出土していることや、農村ではつい数十年前まで下駄の聖性が信仰されていたことを示している。
また同書は、念仏踊りと下駄に何らかの関係があったとする仮説を提示している。一遍聖絵にみる踊り念仏の際に踊り手が下駄を履いていること、各地の盆踊りにその痕跡を残す「ぼろぼろ」とよばれる禅宗系の中世遊行芸能者が下駄を履いていることなどがその理由である。

Bこうした説からは、下駄のもつ宗教的機能(悪霊鎮送など)から盆踊りに採用されたと想像したくなる。しかし、前掲書によると下駄が庶民の履き物として定着するのは江戸時代中期以降、盆踊りへの取り入れは幕末あたりと推測、江戸時代の盆踊りにおける下駄使用については「現時点では否定的」としている。課題を残す問題である。

小唄/小歌(こうた)

「口説き」と並んで、盆踊りの際に歌われる代表的なジャンル。
@「小歌」は中世に発達した歌謡であるが、歌詞の内容などはまだ上流階級性を残すものだった。形式も7775のいわゆる近世小唄形式にはかたまらず、自由律を残している。資料としては16世紀初頭の「閑吟集」が代表的なもの。

A近世初頭に、7775の近世小唄形式が確立。江戸時代を通じて全国的に普及して「小唄」と呼ばれるようになった。江戸時代後期の都々逸(どどいつ)も、同じ流れをくむ。代表的江戸民衆文化の一つであり、盆踊り歌としても大いに発達した。

よく引かれるのは次の例。
 恋に焦がれて  鳴く蝉よりも  鳴かぬ蛍が   身を焦がす
 こいにこがれて なくせみよりも なかぬほたるが みをこがす
    7       7       7       5 

江戸時代の小唄の資料としては、「隆達小唄集」「松の葉」などの歌集のほか、全国の盆踊り小唄を集めた「山家鳥虫歌」(さんかちょうちゅうか。別名諸国盆踊歌集:岩波文庫所収)などが有名。

小歌踊り(こうたおどり)


小町踊り(こまちおどり)


御霊(ごりょう)

政争などで恨みを飲んで死んだ個人の霊を御霊と呼ぶ。
災害や疫病などをもたらすとして、平安時代から盛んに恐れられるようになった。御霊の例としては奈良時代の長屋王の例をはじめとするが、御霊信仰が本格化するのは平安遷都以後である。そして最大の御霊と呼ばれるのが、天神様として有名な菅原道真である。平安時代以降、こうした御霊を鎮魂し送り出すための御霊会がしばしば催された。

御霊信仰拡大の背景としては、前近代の都市人口集積地帯に特有の衛生状態の悪さによる宿命的な疫病流行がある。また平安時代初期は地震や雷などの災害も多く、いずれも御霊の祟りと考えられた。

日本史上、個人の死霊を恐れる信仰はこの御霊信仰から本格化する。中世以降大流行した大念仏などの念仏芸能も、戦死者などの死霊の鎮魂を図るものであり、御霊信仰の流れをくむものである。

御霊会(ごりょうえ)

恨みを飲んで死んだ人の霊である「御霊」を祭る儀礼。
平安時代にはじめ民間で始まり、のち国家的行事としても行われた。「神泉苑御霊会」、「今宮御霊会」=「やすらい花」、祇園祭の源流となった「祇園御霊会」などが有名。


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時衆/時宗(じしゅう)

一遍上人(一遍智真:1239−1289)の開創した、鎌倉新仏教の宗派の一つ。宗派としては時宗と呼ばれ、その構成員は自らを時衆と称した。時衆の宗教儀礼である「踊り念仏」は、盆踊りの誕生にきわめて大きな意味を持つ。

時衆の特徴は、@宗教的儀礼として「踊り念仏」を盛んに催したことと、A開祖一遍をはじめ時衆が全国を漂泊回遊(=「遊行」)する遊行聖として布教につとめことである。その足跡は陸奥から薩摩まで文字通り全国におよび、結果として踊り念仏が全国の念仏系踊り芸能の母体となったと考えられる。中世の教団の実態は閉鎖的なものではなく、構成員は「一向宗」とも深く交じわるものであったらしい。

歴史的には、時衆は先行する融通念仏の念仏信仰をベースとしている。
一遍自身「融通念仏勧むる聖」と言われ、融通念仏者であった。一遍はたくさんの人を集める集客手法を融通念仏から学んだ。彼が人々に配った「南無阿弥陀仏六十万人決定往生」の札は賦算札(ふさんふだ)と呼ばれるが、この賦算という方式は融通念仏が得意とする集客手法であった(この札は現在でも藤沢遊行寺で遊行上人により配られている)。
一遍が取り入れた踊り念仏も、実はすでに融通念仏が芸態としていたものであった。しかし、中世中〜後期における踊り念仏の全国的普及には、やはり一遍と時衆教団の貢献が大きいと考えられる。

一遍の死後、14世紀末から15世紀に全国的に教線を伸ばしたが、16世紀には衰退して本願寺教団などに拠点を奪わることもあった。注目されるのは、中世時衆の拠点が都市的な場所であったことであり、時衆遺跡の存在は中世都市の指標の一つにもなっている。たくさんの人への布教を目指す時衆は、必然的に都市的な場所を拠点に選んだ。踊り念仏から盆踊りへの変化を考える上でも、中世都市問題への注目が必要となる。
中世の時衆はまた、死者供養・鎮送の役割も担っていた。戦国時代、時衆はしばしば戦場に現れて戦死者の供養を行った。この際に催された大念仏や踊り念仏が、後の盆踊りに発展する契機となったと考えられる。

江戸時代になると、時衆は幕府により統制される。全国を回国する「遊行上人」と、引退後の「藤沢上人」の両頭体制であった。

一遍上人の事績を伝える史料としては、弟子聖戒と絵師円伊による「一遍聖絵」と、二祖他阿真教の「一遍上人絵伝」が有名。史料的価値が高いのは「聖絵」である。平成15年春の研究で、聖絵における一遍はもともと全裸で描かれていたことが判明、徹底した「捨聖」(すてひじり)としての姿が明らかになり、関係者に衝撃を与えた。

声明(しょうみょう)

仏教の声楽。節にのせてお経などを唄ういわば男声合唱。

声明は、すでに奈良時代に南都(奈良)の諸寺にある程度伝来していた。
平安時代になると、天台宗延暦寺の僧円仁(794-864)によって、中国で発達した「うたう念仏」といわれる声明の一種「五会念仏」(ごえねんぶつ)が伝えられ、わが国における声明発展の基礎を築いた。

日本における声明を大成したのは、良忍(1072-1132)である。
良忍は比叡山の下級僧である堂僧(常行三昧堂などの施設で声明に乗せて念仏を勤行する僧)をつとめ、親鸞の遠い先輩にあたる。のちに下山し、当時「聖」(ひじり)たちの一大拠点であった京都大原に入って来迎院を開創。各地の声明をほとんどすべて吸収しわが国の声明を大成したという。現在も大原は「魚山(ぎょざん)流」声明の本拠地として有名である。

良忍はまた融通念仏の創始者でもある。
多くの念仏聖の集まる大原で、声明のような音楽を採り入れた念仏芸能が成長し、後の踊り念仏のベースになっていったものと考えられる。後の六斎念仏などの念仏芸能の念仏歌詞には、「ゆうづうねんぶつ なむあみだぶつ」といった歌詞が含まれ、また曲調には「ユリ」「ソリ」「アタリ」などという声明由来の節回しが残されているという。

このように声明は、後の盆踊り音楽はじめ日本民謡の音楽の源流となったと考えられている。

称名/唱名(しょうみょう)

念仏の一種。「阿弥陀仏」の名前を口に出して唱えること。南無阿弥陀仏。
仏教の修行法の一種だが、その簡易さにより庶民の間にも広く普及した。

初期の盆踊り(念仏踊り)では、小歌を利用する前はこの「南無阿弥陀仏」を節にのせて唄っていたと考えられ、全国の念仏芸能にその痕跡を見ることができる。

精霊(しょうろう・しょうりょう)

亡くなった人の魂を指すが、特に1年以内に亡くなった人の魂のことを新精霊(あらじょうろう)と呼び、重視する。

お盆の「まつり」の中心的な祭祀対象と考えられ、盆踊りは迎えた新精霊とともに踊るものという思想が広くみられる。
ちなみに、ショウリョウトンボ、ショウリョウバッタなどの名称は、お盆に霊(精霊)が虫に乗ってこの世へ戻って来るという伝承からつけられたもの。お盆には虫などを殺生することを戒める土地が多い。

精霊踊り(しょうろうおどり・しょうりょうおどり)

精霊を慰めるための踊り。盆踊りの別名称として用いられる。


新民謡(しんみんよう)

大正の末ころに盛んになった「新民謡運動」で生まれた民謡。中山晋平、野口雨情などが中心となった。地方に住む人のためにやさしく唄える「ご当地ソング」風のものをつくったもので、その数は数千曲にのぼる。

新民謡の盆踊り盆踊り歌の代表が「東京音頭」。もとは「丸の内音頭」というご当地ソングだった。

善光寺信仰(ぜんこうじしんこう)

長野県にある日本有数の念仏信仰寺院「善光寺」を拠点とする念仏信仰。平安時代後期から盛んになった。特定の宗派を超えて、念仏信仰の一大拠点となっている。

善光寺の本殿は日本最大の木造建築物の一つ。本尊は有名な善光寺如来で、百済から伝わった日本最古の仏像との伝説を持ち、誰も見たことがない「秘仏」とされる。

鎌倉時代には、善光寺信仰集団は善光寺聖と呼ばれ、時衆や一向宗に先行する民間念仏信仰集団の一つであった。一遍が信州佐久・小田切で踊り念仏を始めたのは、これら善光寺聖の影響があったと見られている。

善光寺信仰は現代も巨大な影響力を持つ。
平成15年のゴールデンウィークの人出の第1位は善光寺の「御開帳」で211万人。東京ディズニーランド(約70万人)の3倍である。


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大念仏(だいねんぶつ)

多くの人を集めて、念仏を合唱する念仏芸能。中世を通じて各地で盛んに催され、全国の民俗行事の母体となった。

参加者からの金品の供給である「勧進」を伴う。
融通念仏で大念仏を修する場合は「融通大念仏」と言われる。
江戸時代に入って衰え、代わりに「念仏踊り」が盛んになった。

大念仏が催行される時期は必ずしも盆ではなかった。しかし、江戸時代にはお盆の時期に行われる大念仏が、盆踊りとして定着していったケースが多かったと考えられる。
大念仏の芸能は全国に残る。静岡県遠州地方の「遠州大念仏」などが有名。

だだ

足で大地を激しく踏みしめて霊を鎮める行為をさす。
現在でも「地団駄踏む」というが、団駄とはこの「だだ」のことである。修験道などの鎮魂の呪術である「反閉」(へんばい)と関係が深いと考えられる。
この足を使う呪術行為が、足を使う芸能である「盆踊り」の芸態の基礎となったと考えられる。

炭坑節(たんこうぶし)

炭坑での選炭唄をベースに生まれた民謡・盆踊り歌。踊りの振りに、採鉱作業の動作が含まれる。

炭坑節はいくつかあるが、有名なのは北九州地域で生まれたもの。
近代の新作盆踊り曲の代表的なもので、東京音頭と並んで現代の盆踊りではもっとも踊られる機会が多い。
原曲は、明治・大正の全国的流行曲「ラッパ節」で、筑豊の炭坑に持ち込まれて「選炭節」となり、盆踊り歌となって三池にも伝えられた。戦後政府の復興政策の一環として始まったNHKラジオ番組「炭坑へ送る夕」で、「北九州炭坑節」が全国にオンエアされ、たちまち日本中に広まった。

これに対抗し、北海道夕張炭田を中心とする炭坑の盆踊り歌「北海炭坑節」も登場。有名な「北海音頭」の原型となった。また福島県いわき市では「常磐炭坑節」が生まれるなど、戦後2〜3年は炭坑節ブームの感がある。

「炭坑節」は、産業と盆踊り歌の関係を考える上で、興味深い対象である。


東京音頭(とうきょうおんど)

近代の新作盆踊り曲の代表的なもの。炭坑節と並んで、現代の盆踊りではもっとも踊られる機会が多いと思われる。西条八十作詞、中山晋平作曲。原曲は「丸の内音頭」であったが、翌年「東京音頭」と名称を変え、全国的に愛されるようになった。

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念仏(ねんぶつ)

浄土信仰で阿弥陀仏の名を唱える行為。口に出して唱える場合は称名念仏、口称念仏と呼ばれる。 

もともと仏教における「修行」の一つであるが、わが国では密教の陀羅尼などと同じく「呪文」としてひろく受け入れられ、特にその「死霊鎮送機能」への期待が大きかった。
初期の盆踊りにおいても、念仏は歌詞に採用されていた。

「念仏講」「念仏踊り」など、「念仏」は人々を集団化するはたらきを持ち、結集の中心であった。 

念仏踊り(ねんぶつおどり)

踊り念仏は踊り手自身が鉦を叩き、和讃や歌を歌う芸能。いっぽう念仏踊りは、踊り手と歌い手が分かれたものと区別される。踊り念仏の項参照。
民間芸能としては、「踊り念仏」よりも「念仏踊り」という名称で残るところが多い。
 

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囃子(はやし)


拍子物(はやしもの)



風流(ふりゅう)

日本芸能史、盆踊り史のキー概念。

「風流」は非常に古い言葉で、時代を追って意味が少しづつずれていく。
平安時代は 貴族階級の美意識を表すものであった。中世は「人目を引く趣向」といった意味になり、「1回切りの趣向」が重視された。しかし江戸時代を境に1回性の趣向は失われ、芸態は定着していく。

中世における代表的な風流芸能である「風流踊り」は、現在の盆踊りの初期形態の一つである。

風流拍子物(ふりゅうはやしもの)

盆踊りの先行芸能。

風流踊り(ふりゅうおどり)

学術用語。15〜16世紀に全国で踊られた芸能。
芸態は、風流拍子物の造り物を中心の「中踊り」に取り入れ、外側には「側踊り」(がわおどり)と呼ぶ輪踊りを伴った。

お盆に踊られるため、事実上の「盆踊り」であったといえる。ただし当時は「盆の躍り」「盆の風流」などと呼ばれており、「風流踊り」「盆踊り」とは呼ばれていなかった。

16世紀には、風流踊りは京都で盛んに催行される。特に経済力を蓄えて勃興した京の「町衆」が風流踊りの大きな担い手となった。豊後大友氏、阿波三好氏など有力な戦国大名が風流踊りを城下に招聘し、地方への風流踊り伝播に一役買った。

風流踊りは安土桃山時代にいよいよ盛んになり、その様子はいくつかの「洛中洛外図」にいきいきと描かれている。豊臣秀吉の追悼となる豊国廟祭礼の際にピークを迎え、江戸時代になると衰えた。

暮露(ぼろ)

「ぼろぼろ」ともいう。禅宗系の遍歴宗教芸能者。
中世に活躍し、全国に大念仏などの芸能を伝え、芸能の指揮者でもあった。

近世(江戸時代)に入るとその活動は衰退するが、芸能を伝えた「ぼろ」の記憶は各地の盆踊りなどに残る。「暮露」と書かれた提灯が伝えられているほか、村人が「暮露」に扮して道化の役どころとして登場したりする。

盆(ぼん)

正月とならぶわが国最大の民俗行事、およびその時期。
仏教行事と日本古来の民俗が習合して成立した。かつては旧暦の7月15日を中心に行われたが、明治以降は7月盆や8月盆の地域があらわれ、盆の時期は分散した。
沖縄では、現在も旧暦の盆を色濃く残すが、かつては「盆」といわず「七月」(しちぐわち)といった。

仏教と盆
仏教では「盂蘭盆」(うらぼん)と呼び、盂蘭盆に行われる行事は「盂蘭盆会」と呼ばれる。

正月と盆
正月と盆は多くの対応が見られる。
盆の盆踊りに対応する芸能は正月には無く、大きな相違点となっている。


盆踊り(ぼんおどり)

もっとも日本人に親しまれている民俗芸能の一つ。
15世紀ころ始まり、約500年の歴史を持つ。

戦後あたりまでは多くの日本人にとって事実上最大の娯楽であった。
幕末以来、日本人の海外移住とともに、盆踊りは海外にも大きく広がった。現在でもハワイ、南米、アジアなどで日系移民を中心に楽しまれている。このため、もはや「日本独自の芸能」とは言えない。


盆踊り唄(ぼんおどりうた)

盆踊りの際に唄われる歌。
伝承系の盆踊り歌は、大きく「小唄」と「口説」に分類される。


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道ジュネー(みちじゅねー)

沖縄の盆踊り「エイサー」で、村の家々や信仰拠点をまわって踊ること。「門付け」の項参照。
かつて道ジュネーで家々を回る際は、各戸から酒(泡盛)を提供してもらい、水分を補給しながら踊り進んだという。この酒を入れる大瓶をチョンダラー(道化)が二人一組で運ぶ「サケカタミヤー」という役どころがエイサーに登場する。


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やすらい花(やすらいはな)

御霊会の一つ。京都今宮御霊会の別称。
「傘」が有名。

融通念仏(ゆうづうねんぶつ)

良忍を始祖とする念仏信仰。
ちなみに「融通念仏宗」は江戸時代になって成立したもので、良忍の始めたものとは別である。

融通念仏とは、「うたごえ運動」(五来重)であるという見事な説明がある。
融通念仏は、「一人一切人 一切人一人」(ひとりは全員のために、全員は一人のために)というスローガンのもとにつくられた念仏信仰者の共同体。名帳に登録されて参加者になると、過去・現在・未来にメンバーの唱えたすべての念仏の功徳を、すべての参加者が得られるというもの。

融通念仏では、多数の参加者が一斉に念仏を唄う集会「融通大念仏」をしばしば開催した。このとき念仏にあわせてうたうメロディーに、良忍の得意とした声明などの音楽が導入されたと考えられる。

のちに融通念仏からは六斎念仏の「うたう念仏」(居念仏)と「踊る念仏」(立ち念仏)が発展し、「うたう念仏」は盆踊り歌の、「踊る念仏」は踊り念仏や盆踊りの源流となったとする説がある。

遊行(ゆぎょう)

全国各地を漂泊する宗教行為。
遊行する宗教者を「遊行聖」と呼んだ。
一遍ら時衆が代表例だが、中世には高野聖など多くの遊行の宗教者があらわれ、念仏信仰とともに踊りの芸能伝播にも大きな役割を果たした。


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六斎念仏(ろくさいねんぶつ)

融通念仏をもとに展開した念仏芸能。
鎌倉時代、民衆の間に普及してで羽目を外した融通大念仏をひきしめるため、道御上人が潔斎をとりいれた六斎念仏を始めた。
六斎念仏はのちに遊行聖である「空也僧」の管理下で全国に広まり、融通念仏の芸態をベースとする「うた」や「踊り」の芸能を現在に伝える。

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輪踊り(わおどり)
盆踊りの一般的形態。踊り手が輪をつくってまわりながら踊るもので、ふつう盆踊りというと輪踊りのイメージである。
まわる方向は、時計回りの場合も、反時計回りの場合もある。同じ地域で両方混在しているケース(郡上踊りなど)もあり、方向にさほど重要な意味があるとは思えない。

盆踊りの形態としては、よく「行列型」「行進型」と対比して使われる。一方向へ進んで戻ってこない阿波踊りやおわら風の盆は典型的な「行進型」と考えられる。しかし、同じように町方の路地で踊られるため「行進型」とされている盆踊りの多くは、道路の端で折り返してまわってくるため、実は路地で踊られる「輪踊り」に過ぎないこともある。

輪踊りの中心に意味を見いだす説もある。
かつて風流踊りでは、輪踊りの中心に「中踊り」があり、霊の依り代となる笠や造り物が位置した。その後音頭が中心に立つようになっても、臼や笠などの依り代が併置されることが多かった。現在は音頭や囃子の乗る「踊り櫓」が位置することが多く、宗教的意味合いは薄れている。
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