エスニックな背景や開催日程など、マクロな視点からハワイのボン・ダンスの特徴を見てきました。ここからは、もっとミクロな視点からハワイのボン・ダンスの姿に近づいてみましょう。大きなポイントの一つとなるのが、ボン・ダンスの踊られる場所です。
「お寺」で踊るボン・ダンス
「日程表」でも見られたように、ハワイのボン・ダンスのほとんどは「お寺」で開催されています。現在ハワイには、本派本願寺(西本願寺)などを中心とする複数の宗派の仏教寺院があり、その数百数十ヶ所。このうち、約80ヶ所の寺院がボン・ダンスの会場となっています。
具体的には、お寺の中庭や駐車場など、寺院に隣接する広場的な空間が盆踊りの会場になります。広場の中央には「櫓」が設けられ、その周囲に踊りの輪ができます。会場の周囲にはギャラリーのためのイスが並べられ、手作りのお菓子や軽食を扱う屋台も見られます。
見た目ほとんど日本の盆踊りと変わらないというのが、ハワイのボン・ダンスの率直な印象です。しかしよく見ていくと、そこにはやはり日本の盆踊りとの違いがあります。
ホノルル都市部のボン・ダンス会場。
少々手狭な感じ。
(08.08.09 ハワイ島ヒロ郊外)
広々としたハワイ島では、ボン・
ダンスの会場もまた広々。
(08.08.08 オアフ島アラモアナ)
≪日布比較≫ お寺と盆踊りの関わり
日本でも、伝承系の盆踊りや念仏踊りなどではお寺の庭で踊る時ケースは珍しくはありません。しかし、ほとんどのボン・ダンスがお寺で踊られるというハワイのお寺への極端な集中度は、やはり日本の盆踊りとの大きな違いといえるでしょう。
また、日本の盆踊りの場合、お寺は盆踊りの会場を提供するにとどまり、お寺自身が盆踊り開催に主体的・積極的に関与するのはあまり一般的ではありません。これに対しハワイのボン・ダンスの場合は、お寺は会場の提供にとどまらず、開催日程や行事構成、音頭、そして盆踊りの母体・担い手にいたるまで、ボン・ダンスと深く多面的にかかわっているのです。
どうやら「お寺」(=仏教寺院)は、ハワイのボン・ダンスを理解する重要なカギとなるようです。仏教寺院は、どのようにハワイに登場し、そしてボン・ダンスの場となっていったのでしょうか。19世紀に遡って、そのプロセスを見てみましょう。
ハワイ仏教寺院小史
日本人のハワイへの本格的移民が始まった1885年。サトウキビ・プランテーションの日本人キャンプ(日系移民労働者の集団居住区域)では、早くもボン・ダンスが踊られています(*1)。ただし踊りの場はお寺ではなく、労働者住宅の間に提灯を張って踊られていました。当初日本人キャンプには仏教寺院はおろか僧侶もおらず、日系移民は宗教的にほとんど「空白」の状態に置かれていました(*2)。
本格移民開始から10年を経た、19世紀末。日本の仏教教団はようやくハワイでの組織的布教を開始します。各島のプランテーションには「開教使」(教団公認の布教者)が派遣され、「布教所」や教団の経営する小学校等の教育施設が姿を見せはじめます。
20世紀初頭の1902年には、日系移民は約7万人に達し、この時点ですでにハワイ最大のエスニック集団となっています。増え続ける移民を背景に、各地のプランテーションには日系コミュニティが形成されつつありました。仏教寺院は、宗教行事の場、教育の場、そして何より日本人同士の交流と共同行事の場として、コミュニティの中核的存在となっていきます。
図 プランテーションにおける日本人キャンプと仏教寺院
図版(左) オアフ島アイエア・プランテーションの日本人キャンプ(1902年頃)
図版(右) 同キャンプの概観図(イメージ)(1914頃)
*いずれも「図説ハワイ日本人史 1885-1924」(B.P.ビショップ博物館人類学部/ハワイ移民資料保存館)の所載図版を参考に作成。
上の図版は、オアフ島アイエアのサトウキビ・プランテーションと、その日本人キャンプの様子を示したもので、20世紀初頭における大規模プランテーションと日本人キャンプの様子をありありと伝えています。
図版左の日本人キャンプの中央には、寺院(アイエア本願寺)の堂々たる大屋根が見えています。何か行事が行われているのか、米国旗が翻り、多くの人が集まっています。図版右は約10年後の様子ですが、寺院併設の日本人小学校もはっきりと記載され、二世教育の盛んな状況が窺われます。
仏教寺院の財政は、移民信徒の苦しい生活の中からの寄付に依存する厳しいものでした。ただし、仏教が移民労働者の「安定剤」(ひいては経営上の利益)となることを知ったプランテーション経営者たちは、早くから仏教寺院に対し巨額の援助やプランテーション内の寺院敷地供与などの積極的な協力を行い、これが仏教寺院の急速な普及・成長の要因となりました(*3・*4)。
20世紀に入り、日系移民は「海外出稼ぎ」から「定住」へと次第に生活戦略の重点をシフトしていきます。こうした中で、仏教寺院は空間的にも機能的にも文字通り日系コミュニティの「中心」としてのポジションを固め、ボン・ダンスの場としての条件を整えていったものと思われます。
寺院におけるボン・ダンスのはじまり
ハワイの仏教興隆期となった20世紀頭には、寺院の数も飛躍的に拡大しました。
各島の主な日本人キャンプ(居住地)には、最大宗派の本派本願寺を中心に、各宗派の仏教寺院や関連施設が登場します。本派本願寺の布教所総数は、1916年にはハワイ全島で33ヶ所を数えるに至り、この時期に現在にいたる宗派の基盤を確立しています(*5)。
ボン・ダンスの場として寺院が登場するのも、ちょうどこの頃です。
ボン・ダンスは、やはり日系移民の増大を背景に20世紀に入って次第にその存在が注目され始め、プランテーション内のほか、公園や墓地などでも開催されるようになっていました。
中原ゆかり氏は、1914年にマウイ島・パイア・プランテーションの有志が万徳寺で開いたボン・ダンスが、寺の庭でボン・ダンスが踊られた最初であろうとしています。また、1920年代から30年代にかけて、すでに寺院間でのボン・ダンスの開催日程調整が行われていることを指摘しています(*6)。
1910年代における寺院の成長と普及が、ボン・ダンスの場を求める日系移民のニーズとマッチし、寺院は急速にボン・ダンスの中心としてのポジションを確立したものと考えられます。以降現在に至るまで、寺院は一貫してハワイのボン・ダンスの中心的な場を占めています。
ハワイのボン・ダンスの中でも独自の位置を占めるオキナワ系の盆踊りにおいても、ほぼ同様の展開が見られました。寺内直子氏によると、オキナワ系の盆踊りもプランテーションの沖縄人コミュニティを軸に始まり、1930年代以降は次第に寺院での開催が増えていったということです(*7)。
寺院とボン・ダンスを結ぶ「日系コミュニティ」
2008年夏、ボン・ダンス会場を初めて訪れた時のこと。取材許可をいただこうと、会場の方に責任者の方がどこにいるのか尋ねると、英語交じりの日本語で口々に「Choba へ行きなさい!」と言われたのが印象的でした。
Chobaは、漢字で書けば「帳場」。日本では、いまも葬式の香典受付の場所をこう呼んでいます。もともと葬式などの際に姿を現わす、コミュニティの互助的な組織・機能です。
ハワイの寺院の檀家とボン・ダンスの主催メンバーは事実上大きく重なっていますが、ボン・ダンスを仕切るのは寺院事務所そのものではなく、こうした日本の民俗社会に由来する日系コミュニティの組織である点は、興味深いところです。
屋台の売り上げも重要な収入源
(いずれも08.08.08 オアフ島パールシティ)
ボン・ダンスの会場では、お酒を除く飲み物と、食べ物類、そしてボン・ダンス用の手ぬぐいなどを扱う屋台が出店します。特に手作りの食べ物類は参加者の大きな楽しみで、私たちも沖縄のお菓子サーターアンダギーやチョコクッキー、ハンバーガー、シシカバブなどをトライしましたが、なかなかの味わいでした。「ミックス・プレート」や漬物なども飛ぶように売れていました。会場では、信徒による寄付 donation も行われています。名前と金額が記された半紙が貼り出されるあたりは、いわゆる日本の「花」と同じです。
ボン・ダンスの開催に伴うこうした売上は、Chobaを通じて取り仕切られ、寺院やイベントの経営に配分されます。多くの収入が発生するボン・ダンスは、寺院にとっても大きな魅力であり、寺院とボン・ダンスは、日系コミュニティを媒介にして強く結び付いているのです。
寺院とボン・ダンスの将来
仏教寺院とボン・ダンスは、ともにハワイの日系コミュニティを出発点とし、日系コミュニティを媒介として深く結びついていきました。
こうした歴史的経緯により、いまも仏教寺院とボン・ダンスは、ともに日系コミュニティの人々によって支えられています。経緯は多少異なりますが、北米のカリフォルニアや南米のブラジルなど他の地域の日系コミュニティにおいても仏教寺院はやはり中心的な位置づけを持っています。そして、やはりボン・ダンスの主要な開催場所となっている点は注目されます。
近年、日系コミュニティでは高齢化と世代交代が進む中、仏教信者(檀家)は急速に減少しており、ハワイの仏教と仏教寺院は「曲がり角」に来ているといわれています。ボン・ダンスの場としての仏教寺院が今後どのような歴史を歩むのか、注意深く見守りたいところです。
≪ コラム ≫ ハワイの寺院建築遺産
ハワイの仏教寺院は、実に多様かつ独特な建築形態を持っています。
寺院環境の変化や老朽化、開発等のため、こうした寺院建築の多くが建て替えによって失われていきました。近年、こうした寺院建築は日系移民文化史の証言者として、また東西文化接触の貴重な事例として注目され、保存に関する議論も高まっています。
パランボ湊石ローレン麗子氏の研究によると、戦前の歴史的な仏教建築には以下の4つの類型があります。
図表 ハワイの仏教寺院建築類型
時期 | 類型 | 事例 |
初期移民時代 (1868~1907) |
プランテーション住居型 | ワイナク浄土宗教会堂 (ハワイ島ヒロ) |
日本風意匠型 | 初期のアイエア本願寺 (オアフ島アイエア) |
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中期移民時代 (1908~1924) |
布哇(ハワイ)折衷型 | パールシティ本願寺 (オアフ島パールシティ) |
後期移民時代 (1924~1946) |
インド風意匠型 | 本派本願寺ハワイ別院 (オアフ島ホノルル) |
(図表)パランボ湊石ローレン麗子「ハワイにおける『プランテーション住居型』寺院建築の研究」日本建築学会計画系論文集NO.513(1988.11) をもとに、作成。
①プランテーション住居型
仏教開教当初は、移民の仮設バラック住宅を模した「プランテーション住居型」と呼ばれる簡素な建築が主流でした。現在当時の姿をとどめる建築は、ハワイ島ヒロの「ワイナク浄土宗教会堂」などわずか7ヶ所となっています。
②日本風意匠型
初期移民時代でも、経済的ゆとりのある規模の大きいプランテーションでは、日本での姿をそのまま再現したような「日本風意匠型」の建築がみられました。上で見た「アイエア本願寺」はまさにこのタイプです。ちなみに、移民の中には大工技術を持つ人も多く、寺院はこうした人々の手で建てられ、やがて日本人大工がハワイの大工の中心となっていったのも興味深い点です。
③ハワイ折衷型
20世紀初頭、日系コミュニティの成長とともに仏教寺院の建築様式は大きく変貌します。この時代に生まれた「ハワイ折衷型」は、ハワイ土着の様式を取り入れ、内部構造はキリスト教会風という、「東西文化の接触」という点で注目される類型です。私たちの訪れた「パールシティ本願寺」は、まさにこのタイプの代表的な事例でした。
④インド風意匠型
「定住時代」にはいると、ハワイ仏教は白人文化を代表するキリスト教会からの批判に対抗し、キリスト教よりも古い仏教の宗教文化を主張する独特の「インド風意匠型」類型を編み出しました。インドやイスラーム、ローマ、ギリシャ、ヨーロッパ風の意匠が無作為に混ぜ合わせられています。ホノルル市街に異容を誇る「本派本願寺ハワイ別院」がこのタイプです。
ちなみに、戦前日本でも西本願寺(本派本願寺)はアクロバチックな建築様式で知られており、京都西本願寺や東京築地本願寺の「インド風」様式は有名です。こうした西本願寺の奔放な建築観が、どこかでハワイの寺院建築にも影響したのではないか・・・?と想像されます。
…戦後、現代教会風や現代建築風の寺院建築様式が登場すると、こうした伝統的建築様式は次第にかえりみられなくなっています。しかし気をつけて歩いていると、まだハワイの街並みの間にこうした寺院建築を見出すことができます。
日系コミュニティの文化をベースに、さまざまな建築様式が混在するハワイの仏教寺院は、まさにボン・ダンスの会場にふさわしい場といえるでしょう。ハワイのボン・ダンスを訪れるときは、その建築にも眼を向けて楽しんでみてはいかがでしょうか?
パールシティ本願寺は、「ハワイ折衷様式」の代表例。前庭がハワイ風らしい。(08.08.08 オアフ島アラモアナ)
(08.08.08 オアフ島パールシティ)
超立派な真言宗ハワイ別院。
「日本風意匠型」?
(08.08.08 オアフ島アラモアナ)
どう見てもキリスト教会だが、本派本願寺ヒロ別院。左端の親鸞上人像に注目。
(いずれも08.08.09 ハワイ島ヒロ郊外)
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*1 参考文献1.参照。
*2 参考文献2.参照。
*3 参考文献5.参照。
*4 参考文献2.参照。
*5 参考文献4.参照。
*6 参考文献1.参照。
*7 参考文献6.参照。
≪参考文献≫
1.中原ゆかり「ハワイ日系人のボン・ダンスの変遷」(水野信男編著「民族音楽学の課題と方法」世界思想社、2002年所収)
2.島田法子「20世紀初頭のハワイにおける仏教開教と文化変容」(戸上宗賢編「交錯する国家・民族・宗教」龍谷大学社会科学研究所叢書第45巻、2001年所収)
3.「図説ハワイ日本人史 1885-1924」B.P.ビショップ博物館人類学部/ハワイ移民資料保存館、1985年
4.中牧弘允「新世界の日本宗教」平凡社、1986年
5.ロナルド・タカキ「パウ・ハナ」刀水書房、1985年
6.寺内直子「ハワイの沖縄系『盆踊り』」沖縄文化第36巻第1号、2000年
7.パランボ湊石ローレン麗子「ハワイにおける『プランテーション住居型』寺院建築の研究」日本建築学会計画系論文集NO.513(1988.11)
8.「Hawai’i temples,often unnoticed,slowly decay」ホノルルアドバタイザー誌 2005年9月12日記事
9.「Temples in ‘aina」ホノルルアドバタイザー誌 2005年8月26日記事
10.Van Zile,Judy. The Japanese Bon Dance in Hawaii.Honolulu:Press Pacifica 1982
11.飯田耕二郎「ハワイ日系人の歴史地理」ナカニシヤ出版、2003年
12.森仁志「境界の民族誌」明石書店、2008年
13.移民研究会編「日本の移民研究 動向と文献目録Ⅱ」明石書店、2008年