ハワイの盆踊りはどのように始まり、どのような継承や変化を経て、今日見るような盆踊りになったのでしょうか。
[戦前] 移民初期「官約移民」といわれる契約集団移民がハワイへの入植を始めます。
入植先は 「砂糖耕地」 Sugar Plantation ないしサトウキビ・プランテーションと呼ばれる。広大なサトウキビ畑が、その労働地でした。19世紀中は「およそ移民の80%は耕地労働者」という時代です。
初期の入植中心は、ホノルルのある現在のハワイの中心オアフ島ではなく、ハワイ諸島の東端に位置し、その大きさも他の7島をあわせたほど大きいハワイ島、いわゆるBig Island でした。いわゆる広大な田舎の風景の広がる場所。Sugar Islands とも呼ばれた。
「砂糖耕地の盆踊り」
ハワイにおける最初の盆踊りもまた、この「砂糖耕地」で記録されたものでした。
1900年代
「寺の盆踊り」
20世紀に入ると、仏教系寺院における盆踊り、いわゆる「寺の盆踊り」の時代を迎えます。
本派本願寺(いわゆる西本願寺)による本格的な布教開始。たちまちハワイ全島に30か所以上の本願寺布教所が誕生。他の宗派も登場。現在ハワイで見られる仏教寺院の盆踊りが始まり、やがてハワイにおける盆踊りの主流をかたづくっていきました。
やがて1908「紳士協定」 アメリカへの移民も将来に陰りが まだまだ移民増加の勢いは衰えない。一方移民は、必ずしも最初の入植地にとどまらず、ハワイの中での移動や北米その他の地域への移動、さらに日本に戻る人々も少なくありませんでした。
20世紀に入ると、日系移民の居住地には大きな変化が生じます。急速な都市への集住が始まります。ハワイ最大の都市ホノルルへはオアフ島のみならずハワイ全島から移住者が集まりましたが、その他の各島においても、契約労働を終えて耕地から中核都市(ハワイ島ならヒロ)などの都市部への集住傾向が進みます。
耕地労働者比率はやがて50%を切り l。
1924 いわゆる「排日移民法」
ハワイはじめ北米への新たな移民は途絶。
1930代
都市集住の進展、職業転換も進み、耕地労働者比率は1割を切るところへ。
「ハワイ日系人の生活水準も祖国平均を超える」(中原)ほどになりました。
仏教寺院の進出も都市へ?
「都市における盆踊りの登場」
「都市文化」ということと、日本本土での「メディア盆踊り」の動きはまさにシンクロ。
取り入れは素早い。東京音頭。
都市における盆踊りとして、20世紀初頭以来の仏教系寺院における盆踊りに加えて、新たにイベントにおける盆踊りが見られるようになりました。中原氏はこれを「パレードの盆踊り」と呼んで、日系コミュニティによる寺院における盆踊りと区別しています。
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[戦中] 戦争は盆踊りの上にも暗い影を落とします。盆踊りの禁止。
奇しくも我が国においても公式の禁止こそなかったものの、「自粛」 [戦後] 盆踊りの復活。
有名な「441くどき」の登場。2世の歴史。
「盆踊りグループの登場」
相変わらず中心は仏教系寺院の盆踊りです。
グループ いわゆる「連」の登場 これも、本土の盆踊りとシンクロする動き。
ディアスポラ文化の側面 日本本土との連絡 情報収集はますます盛んに。
日本本土でも盛んに盆踊りがつくられたが、それらがどんどんハワイにも輸入された。
こうしたメディア系の温度は、はやりすたりも激しい。
中には、本土ではブームが去りすでに踊る人がいなくなったような音頭が、まだハワイでは踊られていたりする。
また、北米からの音頭の輸入も 本願寺「親鸞音頭」
じつは「海外本願寺の盆踊りネットワーク?」が存在している?
「ハワイ オリジナル音頭の創作」
「ハワイ音頭」の誕生
「カメハメハ音頭」
フラの取り入れ
そんな中で「盆踊り」はますます盛ん。
盆踊りの「マルチエスニック」化
多民族社会ハワイにおいて、ハワイ人・白人をはじめたくさんの民族が参加して楽しめるオープンな行事に成長。
「盆踊りツアー商品」5年ほど前から登場。
最も早く移民の盆踊りが見られたのが、このハワイなのです。