三隅 治雄 先生(芸能学会会長)
踊り念仏、念仏踊り、そして盆踊り。
用語も芸態もさまざまですが、ついつい忘れがちなのが、いずれも「踊る芸能」であるということ。「踊る」って、いったいどういうことなのでしょうか。
芸能史研究の第一人者・三隅治雄先生が、とてもわかりやすく解説してくださいました。
1.「踊り念仏」とは
― 「盆踊りの源流は踊り念仏」といわれますが、そもそも「踊り念仏」とはどのようなものでしょうか。また「念仏踊り」とはどう違うのでしょうか。基本的なところから教えてください。
◆「とんだり、跳ねたり」が本質
「踊り念仏」の特徴は、集団で”とんだり、跳ねたり”するという点にあります。
このような踊りは、参加者に恍惚感と自己開放をもたらすものです。「踊躍」(ゆやく)と「念仏」を合一化し、心身の跳躍を通じて「法悦」を得るというのが一遍の踊り念仏の考え方です。
「とも跳ねよ、かくても踊れ!」と喝破した一遍の思想からすれば、この”とんだり跳ねたり”して踊るということ自体が、一遍の踊り念仏の原点と考えることも可能でしょう。
ともはねよ かくても踊れ こころ駒
みだのみのりと きくぞうれしき
一遍
◆「踊り念仏」と「念仏踊り」
「踊り念仏」は、もっぱら”ナムアミダブツ”あるいは”ナモデ”というような「念仏」を唱えながら踊りました。
これに対し、念仏を唱えるかわりに歌を唄うようになったものが「念仏踊り」です。誰もが参加できるという参加性の高さが、「念仏踊り」の特徴になります。
◆振りをそろえる意味
― 同じ集団で踊る場合でも、クラブのように個人がバラバラに踊るのとは違いますね。
みんなで手振り足ぶりを揃えて踊るというのは、実は踊り念仏の大変重要な条件です。
一人でも宗教的エクスタシーに入れるのは「シャーマン」です。これに対して、集団を宗教的エクスタシーに持ち込むには、みんなで一緒に振りをそろえて踊る「踊り」が重要になるのです。
2.踊り念仏の源流と展開
― 「踊り念仏→念仏踊り→盆踊り」というのが盆踊り史の通説のようですが、その展開プロセスはなかなかすっきりと見えてきません。先生はどのようにお考えでしょうか。
◆源流は叡山の「常行念仏」
“集団で繰り返し踊る”というパフォーマンスをずっと昔に遡ってみると、平安時代に始められた比叡山の「常行念仏」(じょうぎょうねんぶつ)が、一つの源流であると考えられます。
これは、叡山東塔や西塔の「常行堂」という施設の内部で、僧たちが念仏を唱えながら阿弥陀仏の周囲をぐるぐる行道(ぎょうどう)してまわるという修行の一種です。
◆「空也」:民衆への展開
山上の寺院堂内で行われていた念仏修行を、京都のまちなかの民衆の間に持ち込んだとされるのが「空也上人」です。
空也の踊り念仏は、京都の六波羅蜜寺や空也堂に伝えられたほか、「鉦たたき」や「鉢叩き」のような芸能者の手によって、全国に広まっていきました。
空也踊念仏を伝える六波羅蜜寺
(京都)
◆「融通念仏」の集団性・参加性
次に重要になるのが、平安時代末期に始まる「融通念仏」(ゆうづうねんぶつ)の潮流です。
「融通念仏」は、複数の人間が念仏を唱えてその効果をお互いに享受するという考え方です。このため、”大勢で唱える”という集団性・多数参加性が、次第に重視されるようになりました。
◆念仏の「行動化」
「融通念仏」はまた、踊りという芸能へと展開する契機を含むものでした。
融通念仏には、座って唱える「座行」(ざぎょう)と、立って唱える「立行」(たちぎょう)の2つのタイプがありますが、集団で行われる「立行」は、踊りにかなり近い形であるといえます。
拍子を揃えて念仏したり行道しているうちに、自然に踊りへと変化していくこともあったのではないでしょうか。集団で念仏を唱えるという行為そのものが、踊りに展開する「行動化」の契機をはらんでいたといえます。
◆空也踊り念仏が前身
以上簡単に整理してみましたが、「一遍聖絵」にも書かれているように、やはり空也の踊り念仏が一遍の踊り念仏の前身と捉えてよろしいのではないでしょうか。
3.一遍踊念仏の意義
― 念仏にもいろいろなタイプがあったのですね。それでは一遍上人の踊り念仏は、念仏踊りや盆踊りへの展開史の中でどのような意義を持っているのでしょうか?
◆「踊り念仏」を全国に普及
一遍の踊り念仏の大きな功績は、踊り念仏を全国各地に広めた点にあるといえます。
普及の要因はいくつか考えられます。最大の要因は、もちろん一遍自身の全国行脚=”遊行念仏”により、踊り念仏が列島の隅々にまで流布したということにあります。
◆一遍踊り念仏の「救済観」
それから、一遍の踊り念仏における「救済観」も普及要因の一つでしょう。
踊り念仏のような念仏芸能は「死者供養」「死者救済」に関わる機能を持っています。例えば「迎講」などはその古い例です。
「迎講」(むかえこう)
平安時代に源信が始めた念仏芸能で、彼岸などに人々が菩薩面などをかぶって
行列・行進し、死者の霊を供養する行事。演劇的な色合いが強い。
ところが一遍は、死者供養だけでなく、現世に生きる人々の煩悩からの開放=救済という側面を重視したのです。”踊り念仏によって、現世の自分たちが救われることにより、死者もまた救われる”という考え方です。
このように現世の参加者自身の「自己救済」という側面を強く打ち出したことが、人々の踊り念仏への参加を促し、さらに念仏行の芸能化を推し進める契機となったのではないでしょうか。
◆「踊り念仏」のブランド確立
一遍の踊り念仏のもう一つの功績は、”平時に公の場で、一般人が跳躍の踊りを踊る”ということを広く認知させたことです。
― 当時は、人々が跳躍して踊ることのできる機会は少なかったのですか?
寺院の内部や共同体の祭りの場などで”集団で跳びはねて踊る”という機会はあったでしょう。しかし、平時に公の場で、多くの人々がとんだり跳ねたりして踊るということはほとんど考えられないことでした。
ところが一遍は、踊り念仏の「目的」(=自己と死者の苦しみからの救済)と「様式」(=集団で拍子を揃えて跳躍して踊る)を確立し、ありがたい念仏の行儀として世間に広く認知させることに成功しました。その結果、「踊り念仏」は、いつでも公の場で催すことができるものとなったのです。
― いわば「踊り念仏」のブランドを確立したわけですね。
世間の広い認知を得た「踊り念仏」は、その後は村落共同体における「念仏講」のような母体を獲得し、全国各地に普及していきました。
「踊り念仏」に目的と様式を与えた一遍は、やはり芸能のリーダー的才能を持つ存在であったのだと思います。
一遍が踊り念仏を始めた小田切の里
(長野県佐久市臼田町)
4.室町期における「盆」の普及
― ところで、「盆踊り」が登場するのは一遍没後かなりたった室町時代のことです。
◆「盆」観念の普及
「盆」の普及ということが、一つのきっかけとなるようです。室町時代になると、死者供養に関して「盆」の観念が色濃くなってきます。
「盆」は、正月とともに1年を2分する時季であり、ともに”祖霊と交わる期間”という重要な意味を持っていました。正月は、門松で祖霊を迎え、左義長(どんど焼き)で送りますが、盆には盆花で迎えて送り火で送る。同じようなことをやっているわけです。
盆・正月とは「共同体のみんなが一斉に休んで、ご先祖様のおもてなしをする」時期なのです。
盆はみんなで、ふるさとで
(静岡県水窪町)
◆盆の「集団性」
「みんながいっしょに休み、みんなでいっしょに楽しむ」。
このことは、念仏踊りや盆踊りなどの芸能の条件である「集団性」の点で重要な意味を持ってきます。
― つまり、踊り手や行事参加者をたくさん確保できるようになるわけですね。
踊り念仏は、時衆僧尼や、上層農民で構成される初期の念仏講などを母体として、不定期に催されていたわけです。これに比べると、村落共同体の全員が休んで参加する「盆」の行事では、はるかに多数の安定した母集団を確保することが可能になります。
― 念仏踊りや盆踊りの条件となる「集団性」「参加性」の背景には、お盆の普及が大きく影響
していたことがよくわかりました。
5.中世「念仏風流」の登場
◆「行列」と「風流」
さて、室町時代になると、人々は死者の供養ということを”行列で送る”という行動で示すようになります。この「行列」というパフォーマンスを中心にして大きく開花したのが、いわゆる「風流」(ふりゅう)の諸芸能です。
室町期には、正月には「松囃子」(まつばやし)、盆には「念仏風流」(ねんぶつふりゅう)などの風流芸能が盛んに行われました。「念仏風流」は、華やかな行列によって死者を供養するもので、やはり死者を弔う目的を重視しています。
◆「念仏風流」の内容
― 「念仏風流」とは具体的にはどのようなものですか。
盆の夜、ムラの人々が行列して、共同体内の有力者の家や新盆の家、特定の踊り場などを訪問していきます。
目的の土地や家に到着すると、「土地誉め」「社誉め」などの歌が唄われ、これから芸能の行われる土地や家などを「祝福」します。そして庭入りとなり、青年たちのダイナミックな踊りによる死者供養が行われます。
その後、老若男女が参加する楽しい輪踊り(手踊り)となります。
そして最後にもう一度全員で村境や辻などに向けて行列し、死者をあの世へ送り出して「弔う」ことで完結します。
全員で行列して村境へ送る
(静岡市有東木)
◆「弔い」と「祝福」の重層
一般に、「弔う」(あるいはシズメル)という行為と、「祝福する」(イハフ)という行為はきびしく峻別・隔離されています。ところが念仏風流では、「弔う」ということと「祝福する」ことが、一つの行事の中で組み合わされているわけです。
このように、「念仏風流」は念仏の名を冠してはいますが、もはや念仏一辺倒ではありません。「弔い」もあるが、「祝福」もある。死者供養もあれば、現世の人々の楽しみもあります。
これら一見相反する機能が、念仏風流では見事に重層しているのです。
― 相反する機能の重層は、日本の宗教民俗に共通する特質のようですね。
例えば日本人は、当初恐ろしい存在であるはずの神様を祭ることによって、最終的にはご利益のあるありがたい神様にしてしまいます。死者供養についても、同じような見方をすることができるでしょう。
◆「行列踊り」と「輪踊り」
盆踊りにかかわる芸態の面でも、「念仏風流」は注目されます。
一般に盆踊りには「行列踊り」と「輪踊り」の2つのタイプがあるといわれますが、先ほども見たように、念仏風流には「行列」と「輪踊り」の両方の要素が並行して存在しているのです。
― 芸態面でも、念仏風流は「盆踊りの原点」の一つといえますね。
◆「念仏聖」による念仏芸能の普及
ところで、「盆」にはこれまで見てきたような祖霊の祭祀や身近な死者の供養(弔い)以外に、無縁仏のような恐ろしい霊たちを共同体の外へ”送り出す”ということも重視されています。
このような無縁の霊の鎮送という場面で活躍したのが「念仏聖」たちです。
戦国時代には戦争が多発し、各地で多くの戦死者が出ました。
長篠・設楽原(三河)や三方ヶ原(遠江)などの激戦地では、戦死者たちの無縁の霊が虻や蜂と化し、地域の人々に災いをもたらしたと伝えられています。
「遠州大念仏」のような念仏芸能は、こうした無縁の死霊たちを鎮め、送りだすために念仏聖によって持ち込まれました。同じようにして、全国各地で戦死者供養のための念仏芸能が広まっていったのでしょう。
6.近世以降-盆踊りへの多様な展開
― 念仏風流のあと、近世(江戸時代)以降の展開はどのようなものだったのでしょうか。
まず「念仏風流」の中で重層していた「弔う」「楽しむ」という2つの機能ですが、近世以降念仏芸能が展開していく中で分離することもありました。例えば盆踊りでは、近世から近代にかけて宗教性の面が弱まり、娯楽性の面だけが正面に出るという変化が広く見られます。
また「行列踊り」「輪踊り」といった踊りの芸態面でも、各地でさまざまな展開がありました。
たとえば「阿波踊り」(徳島県)や「三原やっさ」(広島県)などは、行列踊りの要素が独立したケースと見ることができます。一方「佃島盆踊り」(東京都)をはじめ多くの盆踊りは、輪踊りの要素のみが継承されたものと言えます。
そして、「新野盆踊り」(長野県)のように、現在に至るまで行列と輪踊りの両方の要素を残している盆踊りも見られます。
行列踊りの代表:阿波踊り
(徳島市)
静かな山里の輪踊り
(大分県山香町竜ヶ尾)
新野盆踊り:送りの行列
(長野県阿南町新野)
新野盆踊り:輪踊り
(長野県阿南町新野)
このように、地域ごとの条件の違いによる多様な展開の中で、次第に現在の全国各地に見られるような多様な盆踊りの姿が成立していったのでしょう。
― 長時間、誠にありがとうございました。
…素人には手ごわい「中世芸能史」ですが、三隅先生のポイントをおさえたわかりやすいお話はほんとうに感動的でした。一遍踊り念仏の意義、盆と集団性の問題など、「盆踊りの原点」を探る上での貴重な手がかりも得ることができました。
先生、どうもありがとうございました。
1927年大阪府生まれ。東京都在住。芸能史研究の第一人者。「日本<舞踊史の研究」(東京堂出版)など著書多数。近著に、踊り念仏や風流踊りに詳しく触れた「踊りの宇宙」(吉川弘文館)がある。
芸能学会会長、(財)民族芸術交流財団理事長。