目次
概観
経済社会の安定、成長により文化が発展。一定の統制の下、盆踊りが成熟していきます。現在踊られている盆踊りの初期の文献記録も登場し、現在盆踊りとの直接的関係が明確、現在と続く伝統系盆踊りの素地が確立していきました。一方、江戸、京、大阪の三大都市での盆踊りはおさえられ、地方村落の行事となります。
この時代
江戸時代の安定期。政策も緊縮、経済優先など時々の政権で変化します。文化文政時代の文化は、前期の元禄文化に対し、江戸が中心。鎖国が続く中、独自の江戸文化が確立され、地方においても安定した体制が構築されます。幕末になると、ペリー来航以降、海外との関係を軸に、世論が割れ、国の体制が揺れていきます。
1700年頃~1866年
1711年~16年 正徳の治
1716年~45年 享保の改革
1751年~86年 田沼時代
1782年~88年 天明の大飢饉
1787年~93年 寛政の改革
1804年~34年 文化文政(大御所)時代
1841年~43年 天保の改革
1853年 ペリー来航
1858年 日米修好通商条約
1858年~65年 尊皇攘夷運動
1866年 薩長同盟
1867年 大政奉還
基礎情報
人口:3000万人程度、100年で急増
属性タイプ:貴族、僧侶、士農工商。百姓が8割以上。商工業を生業とする町人が各町にて発展。(城下町、宿場町など)
寿命: 40才程度
飢饉、災害の状況:数年に1度の凶作、50年に一度の大飢饉
伝承媒体:寺子屋などの教育拡充で文字媒体を扱える人が農村にも広がる
領有体制:大名による領有と代官による管理
庶民の衣服:現代の和服に近い小袖、浴衣の広がり
庶民の食べ物:ヒエ、アワ、麦を入れた雑穀米、おかずは野菜中心
庶民住居:間取りのある茅葺き堀立式住居、町人は長屋(平屋集合住宅)
庶民の娯楽機会:大都市は盆踊りが禁じられ、農村や地方都市で男女の出会いの場や季節の楽しみとして発展
宗教・信仰
寺請制度:檀家の成立
本末制度による宗派の整理
神仏の習合 民俗と仏教も混合する
→お盆は、仏教行事:寺の盆と、民俗行事:村の盆 が混在
盆踊り:この頃の出来事
各地の踊りやうたの流行、相互取り入れ
盆踊り内容の成熟化が進んだ
・「小唄」「口説き」の登場
・「三味線」の登場
伴奏(囃子)の登場で、盆踊りは華やかさを増し、娯楽的側面を強めた。
盆踊りの名称
「盆踊り」の名称も定着した。
・盆踊りの内容(スタイル)は、前代から大きな変容
小唄、口説き
「恋歌」が増える。また、物語調の口説きも登場する。口説きは「語り物文化」の影響が大きい。
こうして内容は娯楽化し、本の鎮魂の意味を失っていった
盆踊り文化
・お盆の定着
新盆、精霊・祖霊の送り迎えなど、お盆が定着し、盆踊りも「供養踊り」として大切な行事となる。
・担い手
京のような都市的な場、町衆から、(村落)共同体へ。盆踊りは、脱エリート化し、真に庶民の芸能となった。祖霊崇拝の側面を強めたと考えられる。
ただし、一方で参加をきびしく強制されるなど、共同体的なしばりの対象ともなっていった。
・男女出会いの場
夏の夜、盆踊りは男女の出会い、性的な関係をもつ場にもなった。
※結婚相手選び、奔放な夜這い、双方の側面
こうした風習は平安の昔からあったとみられ、盆踊りの定着とあわせて、融合したと考えられる。また、農村においての婚姻や性交渉は、都市部より自由だったらと考えられる。
こうした盆踊りが出会いの場、という傾向は長い地域では昭和初期まで続いた。(鳥取県以西踊りの地域説明では、盆踊り結婚の最終例がそのころと実名で解説)
出会いの場が、3月の山行き→田植え祭の季節→盆踊りの時期→秋祭りに移行していったという説(柳田国男 山歌のことなど)
・喧嘩
音頭取りが、唄で競ったり、悪口やりとりをしたり、踊りや衣装でアピールするなど。本気の殴りあいなどもあり。若者のエネルギー発散の場にもなる。
・伝達者
聖の徹底的弾圧。現在の盆踊りや民俗芸能に登場する「新発意(しんぼち)」「願人坊主」などは、弾圧され零落したかつての聖の痕跡である。
伝達のルートも変化していった。
・服装
浴衣が普段着として定着。現在の盆踊りの格好の基本形が成立。
下駄、小袖 振り袖
俳句や歌にも歌われる盆踊り
文献名 | 著者 | 備考 | 期日 | 西暦 | 内容 |
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山家鳥虫歌 | 伝天中原長常南山 | 明和九年 | 1772 | 諸国の盆踊他民謡を集めている | |
諸国盆踊唱歌 | 柳亭種彦序文 | 山歌鳥虫歌と同内容を、柳亭種彦が再選 | |||
蕪村句集 | 与謝蕪村 | 1700年代 | 四五人に月落ちかゝる踊かな (踊り=盆踊り 秋の季語 | ||
寛政句帖 | 小林一茶 | 寛政期 | 〃後半 | それでこそ奉公忘れめ盆おどり | |
文化句帖 | 小林一茶 | 文化期 | 1800初頭 | 山かげの一軒家さへおどり哉 | |
ひなのひとふし | 菅江真澄 | 天明三年 | 1783 | 盆踊り唄の記載 | |
良寛禅師奇話 三十二段 | 解良 栄重 | 1800年頃 | 中元前後郷俗通宵ヲトリヲナス都テ如 狂師是ヲ好ム手巾ヲ以テ頭ヲツツミ婦人ノ 状ヲナシ衆ト共ニオトル人師ナル事ヲ知リ傍 二立テ曰コノ娘子品ヨシ誰家ノ女ト師是 ヲ聞テ悦人誇テ曰余ヲ見テ誰家ノ女 ト云フト |
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はちすの露 | 良寛和尚 | 風は清し 月はさやけし いざ共に 踊り明かさむ 老いの名残りに | |||
不明 | 良寛和尚 | 君うたへわれ立ち舞はむぬばたまの 今宵の月にいねらるべしや | |||
山田杜皐宛書簡 | 良寛和尚 | もろともに おどりあかしぬ あきのよを みにいたづきの ゐるもしらずて | |||
壬戌羇旅漫録 | 曲亭馬琴 | 享和2年 | 1802 | 但六齋念佛は大勢ありくなり。〈六齋念佛は洛外の農民等太皷をならし、大人小兒打ましりあやしき唱哥をうたひ、市中をありく、すげ笠などわざとやぶれたるをきたるもあり、〉京にて女兒の盆おとりといふことあるよしきゝぬ。今年近國洪水ゆゑにや沙汰なし。街道の女兒五六歳より十一二歳まで大ぜい手を引あひ。源氏目録の長うたなどうたひてあるくこと。江戸の盆々うたのごとし。是小町おどりなり。 | |
嬉遊笑覧 巻之五 | 喜多村信節 | 天保元 | 1830 | 盆踊りの関する記載あり | |
河井継之助伝 | 1845頃 | 好兄は俗謡を歌ぶことが好で、就中あの長岡甚句の盆踊と來ては大好てありました。 其頃長岡の盆踊は聴かなるのて、書は仁和歌で推して騒ぎ、夜は踊があつた譯ですが、小村屋(順) の角あたりは大したものであつたそうです。妾共は、夜分は一步でも外へ出されませんでしたか ら、詳しくは存じませいが、家中の者が音頭をとらなくては踊が締らぬといふのて、聲を張上げ て『近江源氏」の段物などを話ひ、英服屋などは、白と青の縮緬の碑を揃い、夜の十一時頃から踊 が一層締つたと申すことで御座います。兄は此盆踊が大好でしたが、尤も武士は仲間入りを禁じ られてありましたから、表向出る譯には参りませぬので、コッそり出るのです。確か兄が十七八 歳の時、妾の真岡の浴衣の子供着物をつけ、手拭で顔を隠し、『お母さんには黙って居ろ』と申し て宅を披出し、終夜盆踊の仲へ入ったことがありました。 |
蕪村句集
与謝蕪村1700年代
「四五人に月落ちかゝる踊かな (踊り=盆踊り 秋の季語)」
寛政句帖
小林一茶寛政期後半
それでこそ奉公忘れめ盆おどり
良寛和尚
風は清し 月はさやけし いざ共に 踊り明かさむ 老いの名残りに
君うたへわれ立ち舞はむぬばたまの 今宵の月にいねらるべしや
描かれる盆踊り
浮世絵などに描かれる。有名な葛飾北斎も数点描いている。現代の盆踊りにつながる様子がわかる。
葛飾北斎:1760~1849
梅川東居:安政~文久(19世紀)
過去に題材をとった盆踊の絵:菱川師宣より「盆踊り」を参照して作成したと記載されている。梅川東居の作品。
歌川国貞(三代歌川豊国):1786~1865
柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』の挿絵は「源氏絵」として評判となった。源氏十二ヶ月はそれをベースとした作品。源氏十二ヶ月より盂秋には、盆踊りが描かれている。
現代に残る盆踊りの直系のルーツや、文献による確かな記録が残る江戸中後期
文献資料や伝承も実在が検証できるものが多く、現代の盆踊りの直系とよべるものが確認しやすい
影響を与えた流れ
・ハイヤ系民謡
牛深ハイヤ→海の航路を通じ、全国に広がった
例 阿波おどり、佐渡おけさ
・伊勢(川崎)音頭
伊勢に発し、お伊勢参りの旅人を通じ、全国に広がった。
郡上踊り(かわさき)
・歌祭文、デロレン祭文
祭文
元々神仏に祈りを元にする語り、歌いの芸能
祭文略歴
神仏に対して発せられた願文で陰陽師などが読む(古代)→山伏により神仏習合 法螺貝の利用(中世)→三味線を加えて庶民に近いものに(近世)→多様な芸能化した祭文が登場(江戸中後期)
歌祭文、デロレン祭文は、物語や時事を語り唄う俗謡で、江戸後期に発達
これが、後の江州音頭、河内音頭の直系の源流となる
各地の盆踊りの初期文献記録
郡上踊り
享保八年(1723年)留記(経聞坊文書)
「盆中お宮にて踊申候」
寛政年間(1789年~1800年)万留帳(粟飯原文書)
「毎年八月七日当社にて踊り候事・・」
毛馬内盆踊り
文化四年(1807)
菅江真澄「ひなのひとふし」
「おなしくにふり毛布(けふ)の都(さと)(いまいう鹿角)錦木堆の辺盆踊大の坂ふし」
ここは大の坂ヲヤイテヤ七まがり
中のナァ曲り目でノヲ日をヤイ暮らす
*コラム「徳川宗春の盆踊り」
享保期、徳川吉宗の緊縮財政に対し、開放的な政策をとった尾張藩主、徳川宗春。
その在任期間は、1730年(享保十五年)~1739年(元文四年)と短期間で、放漫政策のせいか、蟄居謹慎の身になってしまいます。
そんな宗春が、尾張藩主になってすぐのお盆の際、大規模な盆踊りを開催します。その様子が、「遊女濃安都(ゆめのあと)」に記されています。
前の代まで、緊縮的なお盆シーズンを過ごした庶民の嬉々とした姿が思い浮かぶようです。
宗春の評価はわかれるところですが、この思い切った政策により今でも魅力を語られることが多い人物です。
「七月中、町々踊古今稀成賑合、衣装は樣々見事成事也、然處十五日飛脚到來、御子様方の内八百姫様、 去る十二日御早世被レ遊候付、明後十七日まで物静に可レ致旨被…仰出、追而又被仰出候は、同月二十四日八月朔日、右両日両夜盆中の通の賑合仕候様 にとの事にて、両日盆中の通に町々躍り、揚挑掛 掛行燈美を尽、別して本町二丁目三丁目は南側京都 四條通り雨芝居、太鼓櫓の掛行燈、町の中程、大屋根板持の上に置、家々の庇の上に一枚看板、役者の 名を書き掛行燈、同六丁目中程は十二月年中世話事の影廻し致置候、同廣小路四ツ辻には、古今大成 燈籠、諸見物群集す、京都川原の涼みの賑合にも増たるべきこの評判」