目次
概観
江戸から明治へ
明治維新後の西欧化の方針から、旧習は悪とみられ、排除に動く時代。さらに急速な「近代化」の中で、盆踊りも大きく影響を受け、そして変容しました。元々、大都市(江戸、大坂など)では、盆踊りは禁じられていましたが、地方の盆踊りも風紀を乱すとの理由で禁止されます。規制が少し緩められたり、また、取り締まられたりを繰り返しながら、盆踊りはしぶとく残っていきます。
この時代
幕末の動乱から、戊辰戦争を経て、新政府が樹立されます。その後、西南戦争を最後に国内の戦いは終止符がうたれ、諸外国に対抗できる国作りへと邁進していきます。政治の転換はもちろん、工業、商業など産業構造も大きく変化。そして、日清日露という大きな戦争を経験することになります。
1868年 戊辰戦争
1871年 廃藩置県
1877年 西南戦争
1870~80年代 殖産興業政策
1880年代 欧化政策
1889年 憲法発布
1894年 日清戦争
1904年 日露戦争
1909年 国産円盤式レコード発売
基礎情報
人口:4000万人程度でどんどん増加
属性タイプ:四民平等
寿命: 45才程度
飢饉、災害の状況:数年に一度の凶作(特に東北)、地震津波、台風被害、豪雪、スペイン風邪など
伝承媒体:学校教育拡充で文字媒体がメディアの中心に
領有体制:個人、地主の土地保有
庶民の衣服:着物(和服)が多数だが、洋装も徐々に増える
庶民の食べ物:麦飯が主食、野菜に魚介類、肉食の解禁
庶民住居:木造日本家屋、大家族
庶民の娯楽機会:都市だけでなく、村落でも盆踊り禁止となるが根強く男女の出会いの場、娯楽として継続。西洋化により、レジャーは段階的に多様化
宗教
神仏分離令 1868年 明治元年に発令
明治政府は、神道を純粋化し、国の政策の柱の1つとした。そのため、神仏を分離する命令を出す。
それが、比叡山を皮切りに、寺や仏像を破壊する廃仏毀釈運動につながるが、これは国が意図したものでないながら、エスカレートしていく。9万あった寺は半分になったともいわれる。特に南九州などは激しかった。
神仏分離は、また、民俗信仰なども抑制していく。江戸時代、仏教と神道は同じ場所で混合しており、また、民俗信仰も、仏教、神道、道教に元々の地域信仰や自然崇拝などが渾然一体となっていた。それが明治期に一気に変質する。民俗信仰や、神仏混合は一部根強く継続するものの、かなりの影響があり、お盆行事や盆踊りにもこの流れが波及した。
参考 神々の明治維新 安丸良夫
仏教抹殺 鵜飼秀徳
盆踊り:このころの出来事
盆踊りの「禁止」
明治7年頃、各地で禁令が発布
文献名 | 期日 | 西暦 | 内容 | ||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
盆踊り禁止の布達(岐阜県) | 明治七年 | 1873 | 盆踊りの禁止 | ||||||||||||||||||
盆踊り禁止の布達(奈良県) | 明治七年 | 1873 | 盆踊りの禁止 | ||||||||||||||||||
盆踊り禁止の布達(愛媛県) | 明治十年 | 1876 | 盆踊りの自粛勧告 | ||||||||||||||||||
盆踊り禁止の布達(愛媛県) | 明治十四年 | 1880 | 盆踊りの禁止 |
盆踊りの変化・盆踊りの「近代化」(風紀上の理由)
時間帯 徹夜踊りの減少
うた 歌詞の変化 (卑猥卑俗なものが改められ、現代的な文句に)
盆踊り規制の緩み
明治中期になると、盆踊りの規制が緩みはじめます。
日本之時事 明治21年(1888年)9月1日発売 第7号
警察によって取り締まられていた盆踊りが、黙認され、また賑わいを取り戻す姿が描かれています。また、盆踊りが、男女の交流の場であったこともこれでわかります。
記事概要(意訳)
数百の老若男女が一同に、立場のわけへだてなく集まって、灯籠をかかげ、声がとどろき、踊りが沸き立ち、手拍子が響き渡る、これが田舎の盆踊りである。市街の路上、名主の門前、鎮守の杜内などで、時期は盂蘭盆、七月十五六日の夜である。男性の女装、女性の男装、ボロをきたり、貴族の装いをしたり、奇抜な格好で、意表をつく趣向をこらして、皆の目をひこうと競い合う。卑猥でみだらで、男女の情が交錯し、一夜の契りを結んで果ては子を宿すこともあり、風紀を乱すとういうことで、以前より警察により取り締まられることになった。この盆踊りは、田舎に多いが、特に東北が盛んであった。
筆者は、避暑のために東北に旅行したが、丁度8月15日~16日にあたった。東北では、陽暦でも陰暦でもなく、その中間のやり方で、この季節を盂蘭盆としているのが多い。今年は西日本が水害などで大変だったが、東北は非常に季候が良く、作物もよく実った。農家の人は意気揚々とし、それが商工業の人にも波及して、腹をたたいたり、胸をたたいたり、往事の盆踊りの賑わいであった。老若男女が熱狂して踊り騒いでいる。警察もこれを黙認していた。
これをみて、眉をひそめる人もあるかもしれない。ああ、また風俗が乱れていると。しかし、筆者は思う。煌びやかな場で行われる舞踏会は男女が抱擁して跳ね回っているではないか。また、仮装舞踏会なども盆踊りの仮装と何が違うのだろう。もし、風俗をただすというなら、庶民からでなく上からやるべきではないだろうか。
何事も西洋がよいといって、カルタはだめでトランプはよい、とか、盆踊りはだめで舞踏会はよい、とか、忠義は反逆罪より卑しいとか、そういう人もいまだに多い。庶民の風紀をただそうと、厳しく禁じたところで、元をたださないと、どうにもならないのではないか。そうしたこともあるから、最近は警察も粋にはからって、盆踊りも黙認するようになったのではないか。
古来中国では、気候変化の予兆から、農家の苦境を知ったというが、このように農民が歓喜しているのは、気候がよく豊穣が見込まれるからであり、むしろ大いに楽しんでもらうべきではないか。盆踊りも村芝居もよいではないか。
風俗画報 明治24年(1891年)8月10日
以下の盆踊りが紹介されています。特に鶴岡の盆踊りは、神田明神の祭礼にも勝るとも劣らず、各地の人が集まる様子が
記載されています。
羽前鶴岡(現在の山形県鶴岡市)の盆踊り、紀伊有田郡(現在の和歌山県串本市紀伊有田駅あたり)の盆踊り、越前福井在一ノ瀬村(福井市市ノ瀬)のカンコ踊り
風俗画報 明治30年(1897年) 7月10日
以下の盆踊りが紹介されています。いずれもにぎわっている様子がわかります。
河内音頭、鶴岡の盆踊り(前項と同じ)、信濃国東筑摩郡新村(現在の松本市新村)の盆踊りが紹介されています。
描かれた盆踊り
江戸後期~明治初期の浮世絵師、月岡芳年が描いた、月百姿、盆の月、江戸を思い描いた盆踊り絵となります。
政策の影響による盆踊りの減少
「第二次桂内閣 1908年(明治41年)~1911年(明治44年)の文部大臣 小松原英太郎 内務大臣 平田東助が盆踊り禁止令を発動して、農村の粛正にのりだした。生産阻害、風俗壊乱の元兇として盆踊り廃止を説いてまわる。『盆踊り退治』と称した。この影響は大きく、農村をたずねて『ここの盆踊りはいつごろやめになったか』と聞くと『明治の終わり頃か、大正の初め』という古老が多い」(永田衡吉「民俗芸能 明治・大正・昭和」より)
産業革命との関係
上記のような環境の中でも、新たな盆踊りの動きの萌芽がみられ、産業と伝統の盆踊りが重なった
・産業革命による、労働者の発生
・企業や職場が新たなコミュニティとなる
・産業系の盆踊りの発生(職場コミュニティ、レクリエーション)
「富岡製糸場と盆踊り」
明治6年6月19日、皇后は英照(えいしょう)皇太后(孝明天皇の准后(じゅごう))とともに馬車で皇居を出発し、24日、富岡製糸場を視察されました。そのときの話が富岡日記に書かれています。
<富岡日記より>
その内に取締の方が、長野県出身の工女に、「お前さん方のお国には盆踊があるということだが、知っておいでなら踊って下さい」と申されました。初めは皆引込んで居ましたが、余りおすすめになりますので、四五人踊りますと、一人増し二人殖えて段々多くなりまして、二三十人踊りまして、私も踊りましたところ、尾高様・青木様初め諸役人方大そうお喜びになりまして、工女たちも山の如く見物致して居ました。
・産業革命の流れで「炭坑節」が生まれる
三井田川伊田坑の選炭場
伊田機械選炭節:小野芳香が整理 →炭坑節の元歌となる