目次
概観
日中戦争開始の昭和12年(1937年)ごろから、戦時歌謡・軍国歌謡等の比率が高くなり、盆踊りもその影響をうけます。国威発揚のための音頭が執り行われ、また、慰問なども行われます。そして戦中、盆踊りの実施は抑制されます。戦争後、昭和27年(1952年)まで、日本はGHQの統治下におかれ、その中で盆踊りもまた、再開していきます。
この時代
日中戦争開始以降、検閲等がきびしくなり、音楽等も発禁になるものがでてきます。(例えば淡谷のり子の「別れのブルース」はセンチメンタルで国民を鼓舞しない、時勢にあわないとの理由で発売禁止に)そして、昭和16年(1941年)に太平洋戦争がはじまり、敵性語が禁止になる等、統制は厳しさを増します。戦況の悪化に伴い昭和19年~20年にかけて、全国的に空襲が相次ぎ、昭和20年(1945年)8月15日、終戦を迎えます。
連合国の統治下におかれ、飢餓などの問題に苦しめられながらも、徐々に禁止されていた文化が解放され、一方で戦前の修身、歴史などの教育は否定されます。そして、日本国憲法の発布、サンフランシスコ講和条約を経て、再独立をはたします。
1937年~45年 日中戦争
1941年~45年 太平洋戦争
1945年8月15日 ポツダム宣言受諾
1945年~52年 GHQによる統治
1947年5月3日 日本国憲法施行
1952年 サンフランシスコ講和条約
基礎情報
人口:8000万人程度 戦争による減少、外地からの帰国による増加
属性タイプ:戦後民主化に女性参政権
寿命: 50才程度
飢饉、災害の状況:戦争による被害。食料難
伝承媒体:文字媒体、ラジオ
領有体制:個人、地主の土地保有
庶民の衣服:国民服、質素な服
庶民の食べ物:窮乏期、雑穀米、芋など
庶民住居:木造日本家屋、大家族
庶民の娯楽機会:戦中は統制、戦後は徐々に解放。貧困により娯楽機会は限られる
盆踊り この頃の出来事
第二次世界大戦 存続の危機
戦時体制に組み込まれる盆踊り
国威発揚への利用
1937年(昭和12年)の日中戦争以降から、検閲が強化され、また、戦時・軍国色の強い作品が増える。
・郡上踊り:軍隊や工場への慰問の実施
軍関連の英雄譚を口説きにしたものが歌われる
・肉弾三勇士
・第六潜水艇 など
戦時歌謡における音頭、盆踊り
参考:CD 「みんな輪になれ軍国音頭の世界」より
昭和14年(1939年)戦場盆踊り、軍国盆踊り (ポリドールより発売)
昭和15年(1940年)建国音頭(ビクター)
昭和16年(1941年)三国音頭 : 日独伊三国軍事同盟を祝う
昭和18年(1943年)増産音頭、決戦盆踊り
1941年~1945年太平洋戦争戦時中の結果
遊興の禁止 時流の中で盆踊りも停止
祭りの担い手である若者を失う
日中戦争から太平洋戦争までの軍関連の戦没者230万人 一般人80万人
その中でもお盆の鎮魂という意味で限定的に開催が許される
郡上踊り
8月15日のみ開催が許され、終戦の日にも開催
新野盆踊り
戦中戦後も開催された
「郷土舞踊と盆踊」小寺融吉 1941年
小寺融吉
はじめて盆踊りについて、まとまった研究を行い、書籍にまとめた。昭和16年 日中戦争中、太平洋戦争前夜に出版
民謡採取
町田佳声の民謡採取は、1944年までは戦時下でも継続され、1944年7月20日「日本民謡大観・関東編」が
刊行された。しかし、傷病で編集に携わっていた藤井清水、小寺融吉が亡くなる。
終戦と盆踊り
終戦とともに、すぐさま各地で盆踊りの復興が見られた。昭和21〜23 阿波で多くの連が誕生した
GHQの統治下以降、盆踊りは解放されていく。
1946年GHQ統治下での東京近郊の盆踊り
写真でわかる事典 日本占領史より
Mid summer Mass Dance Party in appreciation of General MacArthur’s sincere Aid
for Japan’s Food Crisis(マッカーサー元帥の誠意ある日本の食糧難に対する援助に感謝する
真夏の踊り大会)という横断幕が、櫓にはられている。そして多くの人々が踊りを楽しんでるシーン。
1946年7月19日 東京近郊のことだという
1947年 行事イベントが本格的に再開しはじめる
・皇居前広場の出初め式、共立講堂での和楽器演奏会、ミスコンなど
1948年炭坑節のレコード
・赤坂小梅が唄う炭坑節のレコードが発売。全国的な人気となる
民謡採取
町田佳声の民謡採取が、1948年に再開
1949年全国民謡大会→地方民謡ブーム
町おこしや戦後復興にむけ、地方民謡や盆踊りがうまれる
1951年第一回紅白歌合戦
出場歌手14人の中で、赤坂小梅 三池炭坑節 鈴木正夫 常磐炭坑節 で出場