看聞日記 国立国会図書館デジタルコレクションより(インターネット公開可資料)

看聞日記は、伏見宮貞成親王の作で室町時代の様子が記録されたた重要な資料です。その永享三年(1431年)七月十五日に「即成就院念仏踊如例。所々念仏踊地下依計会略云々」、翌永享四年七月十六日「今夜即成院念仏踊見物。女中男共相伴。異形風流有其興」という記載があります。これが、文献上にあらわれた、最初の盂蘭盆の念仏踊りといわれており、盆踊りの歴史を500年~600年とする根拠にもなっています。

それでは、この即成院の踊りはどんな様子で行われたのでしょうか。即成院の歴史や、かつて即成院のあった伏見地域の地理条件を含めて考えてます。

上杉本洛中洛外図屏風より右扇風流踊りの部分(於悲田院西側) 不許可複製 米沢市「上杉博物館」所蔵 利用許可取得済

まず、踊りです。手がかりになるのは、洛中洛外図屏風に描かれた風流踊りです。時期は町田本が1520年頃、上杉本が1560年頃と、看聞日記時より100年差がありますが、推測の根拠にはなると思われます。町田本では、笠、赤熊を被った人、すりざさらを持つ人などが、上杉本では花飾りをした人々がみられます。
現代でも、京都のやすらい花、盆踊りでいうと三重のかんこ踊りなど、赤熊や花笠が使われる風流系の踊りが数多く残っていますが、派手で躍動的な踊りが多いです。即成院の踊りもおそらく現代の風流踊りにつながるものだったのではないでしょうか。

次は場所であす。即成院は、現在、京都東山にある泉涌寺の塔頭になっています。重要文化財の本尊木造阿弥陀如来と二十五菩薩像のうちの多くは平安時代後期の作であり、菩薩は皆極楽往生を喜び、楽器を奏で、口をあけた笑い顔をしているようにみえるものもあります。お寺の説明によれば、この仏像のファンも多く、ずっとみつめている方もいるそうです。毎年十月には、二十五菩薩お練り供養法要という形で、お稚児さんが来迎と救済を現す行事も行われ、庶民からの信仰の厚さを感じさせます。移転を繰り返し、かつて廃寺になったこともある即成院ですが、このご本尊と菩薩像は、常に寺と共にあり、人々に守られ、信仰は常に耐えることがなかったといいます。

都名所図会巻五より指月と巨椋池(江戸時代) 国立国会図書館デジタルコレクションより(インターネット公開可資料)

この即成院の元々の場所は、伏見、宇治川にかかる観月橋の前、指月と呼ばれた桃山丘陵にありました。この丘の前には、かつて巨椋池という湖がありました。豊臣秀吉の伏見城築城期以降、徐々に埋め立てをされ、とうとう昭和に入りその姿を消してしまいました。巨椋池を前にする伏見地域は、平家物語、「月見」でも福原遷都の際に旧都の名所として名があがるほどの場所でした。空にある月と湖に光る月、双方が映えたに違いありません。

旧暦の盆、七月十五日は、満月の日です。

このような背景をまとめて考えると、即成院本尊の阿弥陀如来と菩薩像、巨椋池に映える月、豪奢でダイナミックな風流踊り、三つがこの日、永享三年(1431年)七月十五日に同時に揃っていたということになります。三つがどのような相互関係をもっていたかは、わかりません。ただ、盆踊り誕生のときから、現代と同様、その日その地でなければならない雰囲気というものがあったのではないかと、情景を思い描きたくなります。

  開催情報
日程
場所 京都府京都市伏見区
アクセス
(公共交通)
観月橋駅近く

 
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歴史の中の盆踊り