浦上川のほとりにあるサンタ・クララ教会の跡地に集まり、盆踊りを隠れ蓑にして祈りを捧げたのです。片岡氏の著書には、キリシタンの間に伝えられた1曲の「盆踊り歌」が紹介されています。
家野はよかよか 昔からよかよ
サンタ・カララの 土地じゃもの (クララをカララと訛る)
(出所:片岡弥吉「浦上四番崩れ」ちくま書房)
盆踊り文化的にも、いろいろ興味深い盆踊りです。まず、盆踊りの母体。浦上のキリシタンが長く信仰を守り得たのは、サンタ・クララ教会に端を発する信徒たちの強固な地下組織が存在していたためでした。盆踊りは、浦上地域のムラ共同体をベースとしつつ、それとほぼ重なる「信仰共同体」をも母体としていたのでした。
盆踊りの「日程」も注目です。当時キリシタンは「バスチャンの日繰り」と呼ばれる独自の「教会暦」(カトリック教会の典礼や聖人の祝日を示す暦)を持っていました。これは、陰暦の日本文化に合わせるため、陽暦(グレゴリオ暦)のカトリック教会暦を陰暦の日取りに変換する工夫をした暦です。このバスチャン暦によると、「サンタ・クララの祝日」は陰暦7月19日、サンタ・マリアの御上天の祝日が陰暦7月22日にあたり、ちょうど日本の(陰暦の)お盆=7月15日前後と重なるのです。浦上の人々は、お盆の名を借りて、これらの聖人の祝日を祝っていたのでした。
芸態面ではどうでしょうか。残念ながら、踊りの振りやメロディーは伝わっていません。しかし、上記の歌をみると、あきらかに7775の近世盆踊り固有の調子です。意味も、盆踊り唄に多い「場所誉め」の歌と見られなくもありません。長い一夜を踊り明かすため、こうしたキリシタンの盆踊り唄は他にもたくさんつくられたことでしょう。他にカトリックの祈り=オラショも唱えられたかもしれません。いずれにせよ、役人の目を気にして、あくまで盆踊りらしい盆踊りを踊ろうとしたのではないでしょうか。盆踊りは、毎日息をひそめるように暮らすキリシタンたちにとって、かけがえのない慰めと喜びをもたらしたものと想像します。
幕末を迎えると、浦上を激動の歴史が襲います。1865年3月、大浦天主堂で浦上の信徒がパリ外国宣教会の神父にひそかに信仰を告白。日本におけるキリシタンの存在が知られ、ヨーロッパのキリスト教世界に衝撃をもたらした、いわゆる「信徒発見」です。外国人宣教師と再び接触した浦上の信徒たちは公然と寺請制度に反抗し、1867年7月、江戸幕府は大規模検束に踏み切ります。「浦上四番崩れ」とよばれるこの大弾圧の最中に、江戸幕府が瓦解。禁教政策をひきついだ新政府の手によって、浦上村のキリシタン3千人が全国諸藩に配流され、拷問などのひどい扱いを受けました。浦上の村は廃墟同然となったそうです。おそらく、この時に盆踊りも途絶えたのでしょう。
1873年、諸外国の圧力のもと明治政府はキリシタン禁教令を撤回します。帰郷した約2千名の信徒の手で浦上の地にふたたびキリスト教信仰の火がともり、やがて東洋における一大キリスト教信仰拠点となっていきます。しかし1945年のお盆・8月9日、長崎原子爆弾投下。爆心地は、あのサンタ・クララ教会跡地からほど近い場所でした。浦上の谷は炎につつまれ、信徒1万2千人のうち8千5百人の命が失われたのです。
平和公園の北西、浦上川にかかる大橋のたもとに、「サンタクララ教会記念碑」がひっそりとたたずんでいます。美しい聖女クララ像は、「歴史の中の盆踊り」をめぐる浦上の地の人々の物語を、静かに語りかけてくれているようです。
(注)かくれキリシタンについては、研究者や教科書により指す対象が一定しません。片岡弥吉氏によると、家康の禁教(1614年)から1865年までを”潜伏キリシタン”、その後の禁教令廃止後もなお伝承の信仰を守り潜伏をつづける人たちを”隠れキリシタン”と区別しています
開催情報 | |
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日程 | ― |
場所 | 長崎県長崎市大橋町 |
アクセス (公共交通) |
長崎電気軌道大橋電停近く |
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