中世は、「ムラ」「マチ」という現代につながる基礎的社会集団が成立した時代です。
盆踊りは、この中世の「ムラ」「マチ」を母体として誕生しました。「歴史の中の盆踊り」日根荘篇(泉佐野市)では、中世の「ムラ」の盆踊りを紹介しましたので、ここでは中世の「マチ」の盆踊りを訪ねてみましょう。
今回の旅の舞台は、奈良市の東南部・高畑(たかばたけ)町。名跡・奈良公園にほど近い地域ですが、観光客の姿はありません。春日大社の社家町として古都のフンイキをよく残し、隠れたカフェやサロンも多い静かな街です。しかし一方で、旧柳生街道に面する高畑は、中世には”奈良の入り口”のポジションにあたり、しばしば戦さも行われるなど、「境界領域」としての性格を色濃く持つ空間でもあります。
15世紀(1400年代)末の奈良では、お盆になるとこの高畑界隈を中心に、連日連夜の「盆ノヲドリ」が繰り広げられました。当時の熱気を伝える史料(春日権現神主師淳「明応六年記」)によると、毎年盆の踊りは昼は新薬師寺、夜は不空院の辻で踊られていたが、新薬師寺での踊りがあまりに激しく、「堂ユルギ瓦モヲチ、御仏達モ御損ジアル間」(お堂が揺らいで瓦も落ち、仏像も破損してしまった)という状態になったため、この年から不空院辻に「躍堂」を建てることにした、とあります。
この記事から、興味深い事実が読み取れます。まず中世奈良では、毎年決まった場所で盆踊りが踊られていたことがわかります。その場所は、お寺や「辻」(都市的な場所)のような場所でした。踊りは、昼も夜も行われています。「お堂の中」で踊られている点は、現在見られる多くの盆踊りとは異なる点で、注目すべき特徴です。そして、お堂や仏像を破損するほどの踊りの激しさ、わざわざ専用施設(躍堂)を設置してまで踊るほどの熱中ぶりからは、当時の奈良の人々がいかに盆踊りに入れ込んでいたかが伝わります。
さて実際に訪れてみた新薬師寺は、知る人ぞ知る”国宝の寺”でした。本堂は、なだらかな瓦屋根に大きな白壁を見せた堂々たる天平建築です。盆踊り文化関連施設としては、おそらく現存最古の建造物でしょう。内部は荘厳な空気。中央の円形土壇の上には、写真や切手でよく知られた十二神将像と本尊薬師如来(いずれも国宝)が鎮座します。この円形土壇の周りを廻りながら、踊りはどんどん盛り上がっていったのでしょう。そして熱狂のあまり、国宝の仏像を毀しちゃった…というわけです。それにしても、太い円柱の並ぶ構造は、想像以上にしっかりとしたつくり。こんな建物を揺るがすほどの踊りとは、いったいどんな盆踊りだったのでしょうか。
次に「不空院辻」を探して、新薬師寺のすぐ裏手にある不空院へ。何人かの方に訊いてみたのですが、残念ながらこちらのほうの正確な場所は特定できませんでした。だいたいこのあたりかな、という「辻っぽい」場所をカメラに納めて、高畑界隈を後にしました
開催情報 | |
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日程 | ― |
場所 | 奈良県奈良市高畑町 |
アクセス (公共交通) |
近鉄奈良駅より徒歩30分 |
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