白鳥と白山信仰
中部地方の雄峰「白山」(はくさん)は、日本を代表する名山であり、また修験道の盛んな信仰の山、焼畑農耕文化を残す山としても知られています。
中世、中部地方の一大山岳信仰拠点であった白山には、3つの登山基地=石川県の「加賀馬場」(かがばんば)、福井県の「越前馬場」(えちぜんばんば)、そして岐阜県の「美濃馬場」(みのばんば)がありました。現在の白鳥は、この美濃馬場のあった地域にあたります。
美濃馬場からの白山登山ルートは2泊3日ほどもかかる長大なものです(われわれ取材班も登山を企画しましたが、結局断念しました)。現在では登山者は稀ですが、当時は「上り千人、下り千人」と言われるほどの多数の信仰登山者で賑わいました。
この地域には特に有名な2つの「白山神社」があります。1つは白鳥より奥の山里「石徹白」(いとしろ)にある「白山中居神社」(はくさんちゅうきょじんじゃ)で、もう一つは白鳥の里にある「白山長滝神社」です。これらは、全国に無数にある白山神社のいわば「総元締め」にあたるような神社です。
訪れてみると、ともに古代以来の山岳霊地の風格を感じさせるすばらしい社殿と境内が残されています。延年風流をはじめさまざまな伝統芸能が伝承されおり、そしてまた「盆踊り」の会場としても里人に長く親しまれてきました。
白鳥踊りの歴史
白鳥の盆踊りについて現在確認されているもっとも古い記録は、江戸時代の享保8年(1723)、「享保留記」(白山長滝神社蔵)に記された記事
「お宮にて踊り申すこと奉行より停止」
というものです。この記事から、少なくとも享保以前に、白山長滝神社境内で盆踊りが踊られていたことがわかります。
江戸時代の盆踊りの記録の多くは、こうした「禁令」の形で残されており、この記録もそうしたパターンの一つです。そして、こうした禁令がしばしば数年おきに繰り返されていることから、表面上従ったふりをしながらなしくずし的に盆踊りを踊り継いできた、一面したたかでかつ盆踊りを深く愛する白鳥民衆の姿も浮かび上がってきます。
白鳥踊りの原型と目されるのは「場所踊り」といわれる踊りです。
「バショウ踊り」とも表記されますが、名前の由来ははっきりしません。「場所踊り」は、神社境内の板敷きの拝殿の中で、下駄を履いて踊られることが特徴で、堂内で踊る中世の古い踊り形式を残したものと考えられます。ゆったりとしたテンポで単純な動作の踊りのため、夜明けまで疲れることなく踊り明かすことができました。また、踊りは村と村との間の「掛け合い」、いいかえれば踊りと歌の挑戦をし合う形で催され、厳しい段取りや作法も決められていたようです。
白鳥はまた福井、富山、長野と名古屋方面を結ぶ交通の要衝でもあり、特に江戸時代にはこうしたルートを通じて様々な踊りや民謡が流入しました。現在の白鳥踊りでは、場所踊り以外に7種類の踊りが踊られていますが、こうした各地との交流の中で次第に取り入れられていったものと思われます。
盆踊りは、かつての地域社会では一年で最大の楽しみでもあり、また男女交際・恋愛の場としても大切な意味をもっていました。全国の盆踊りと同じく、若い衆(青年たち)が運営主体でした。戦前までは地域のお宮や町の辻などで盛んに踊りましたが、現在のような統一された形態ではなく、踊りの輪がいくつもでき、またうた自慢たちが音頭のとりあいをするなど、思い思いに踊りを楽しんでいたようです。現在の踊り以外にも、昭和初期には「富山甚句」「高山音頭」「木曽節」「伊那節」「ホッチョイサ節」などが踊られていました。
戦後の昭和22年には、伝統踊りの継承保存機運が高まり、「白鳥踊り保存会」が発足しました。踊りの標準形をととのえ、囃子をつけ、名称が統一され、現在のような踊り屋台を中心に一つの輪になって踊るかたちが整いました。
踊りは年々盛んになり、 毎年シーズンになると県内外からたくさんの人びとが集まって、奥美濃・白鳥の夏を楽しんでいます。
参考資料:「歴史でみる郡上おどり」(郡上おどり史編纂委員会)
「白鳥おどり」パンフレット(白鳥町観光協会)
ビデオ「白鳥おどり」(白鳥おどり保存会)